薬にまつわるエトセトラ 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第64回

海外の薬局で見かける「蛇」の謎

日本では忌み嫌われる存在である蛇が、実は医療・医薬のシンボルであることを知っていましたか? 注意深く探してみると、さまざまな医療機関や学会のロゴマークに使用されていることに気が付くはずです。

「救急車に蛇のマーク」の謎

薬剤師のみなさんには、海外のドラマや映画を見ている時にも、つい医療シーンが気になってしまう方は多いのではないでしょうか。そうしたシーンをよく見ていると、やたらに蛇のマークを見かけることに気づかれると思います。救急車には、青い星型の中央に杖に巻きつく蛇が描かれたマーク(スター・オブ・ライフ)が大きくデザインされています。またヨーロッパの伝統的な薬局にも、やはり杖に巻きついた蛇を看板にしているところが多く見られます。

救急車の車体上部をよく見ると、スター・オブ・ライフのマークが確認できる。下の画像は拡大した図。日本では馴染みが薄いが、世界では救急医療のシンボルマークとして知られる。

このデザインは、「アスクレピオスの杖」と呼ばれるものです。医療や薬と、蛇の巻きついた杖がどう結びつくのか、そのルーツは古代ギリシャにまでさかのぼります。

治療と再生のシンボル

アスクレピオスというのは、医薬の神であるアポロンの子として生まれた人物の名です。ただしその生い立ちは、極めて不幸なものでした。アポロンは、テッサリアの王女コローニスを愛していたのですが、誤解から彼女を矢で射殺してしまいます。コローニスは、せめてお腹の子だけでも助けてほしいと訴えて息絶えました。この子こそが、後の医神アスクレピオスです。

アスクレピオスは、知恵あるケンタウロス(半人半馬の種族)であるケイロンに託されます。ケイロンは多くの英雄を育てた賢者であり、医学も深く修めていました。そのケイロンが医薬の神の子であるアスクレピオスを育てたのですから、彼の医術は見る見る上達し、師をしのぐほどになりました。

ある日アスクレピオスは、死んだ蛇が仲間の蛇から草を与えられてよみがえるのを目の当たりにし、その薬草を用いるようになったといいます。蛇といえば一般には嫌われ者で、聖書でもイブを誘惑する悪役として登場します。しかし古代においては、脱皮して新たに活力を得る姿から、蛇は治癒と再生のシンボルとされていました。上述の神話には、こうした思想が反映されていると思われます。

へびつかい座の由来

またアスクレピオスは、アテナ神からメデューサ(髪の毛が蛇になった怪物)の血を与えられ、これを使って患者を治療したともいわれます。こじつけて考えるなら、有毒生物である蛇と共存するメデューサの血液には、さまざまな抗体が含まれていたと考えられ、これが患者の治療に役立った――というところでしょうか。

こうして腕を上げたアスクレピオスは、ついに死者をよみがえらせる技術を身につけるまでになります。怒ったのは、冥界の王ハデスでした。自らの領域にやってきた死者が、アスクレピオスの術で取り戻されていくのを見て、「世界の秩序を乱すものだ」と最高神ゼウスに訴え出たのです。

ゼウスも、ハデスの言い分はもっともだと考え、やむなくアスクレピオスを雷で撃ち殺してしまいます(毎度のことながら、何も殺さなくてもいいではないかと思いますが)。しかしその功績と腕前が認められ、アスクレピオスはオリュンポス神の一員になり、天に上げられて星座にもなります。これがへびつかい座で、アスクレピオスが両手に蛇を持った姿として描かれています。

巨大な蛇を手に持つ姿が象徴的に描かれる

アスクレピオス信仰は、後にローマにも広がります。紀元前291年、ローマに疫病が流行した際、元老院議員たちはギリシャに出向き、アポロン神殿に参詣します。彼らが得た神託は、アスクレピオス神をローマに遷座せよというものでした。アスクレピオスは蛇の姿に化けて議員たちと共に船に乗り込み、ローマ市内を流れるテヴェレ河の中洲・ティベリーナ島に上陸します。ここに神殿が作られると、ほどなく疫病の流行は終息しました。

薬剤師会や薬学会のロゴマークにも

このようなわけで、アスクレピオスの神像はヨーロッパ各地に設置され、広く信仰を集めることになりました。像の手には必ず蛇の巻きついた杖が握られており、やがてこれが医学のシンボルそのものとなってゆきます。現在も、世界保健機関(WHO)、アメリカ医師会、イギリス医師会、北京中医薬大学などなど、世界各地の医療関連団体がロゴマークにアスクレピオスの杖を取り入れています。

世界保健機関(WHO)のロゴマーク

医学の象徴がアスクレピオスの杖なら、医薬のシンボルとしては「ヒュギエイアの杯」というものがあります。ヒュギエイアはアスクレピオスの娘で、蛇の絡みついた杯を携えた姿で描かれます。こちらは、アメリカやカナダの薬剤師会、各国の薬学会のロゴマークにデザインされています。

グスタフ・クリムトが描いた【ヒュギエイア】

嫌われることの多い蛇が、広く医学や医薬の象徴になっているのは、このような歴史があるためなのです。海外旅行や学会出席などの際には、こうしたところにも気をつけてみると、また面白い発見があるのではと思います。

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佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

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