薬剤師と著名人エピソード 薬剤師と著名人エピソード
名作を著した作家や誰もが知っているような大企業の創業者。医療とは直接関わりのない業界で活躍した中にも、薬剤師資格や医師免許を持っていた人々がいるんです。彼/彼女は一体どんな人物だったのか? どんな人生を送ったのか? 意外な発見があるかもしれません。
第2回 なだいなだ(1929年〜2013年)
プロフィール
 
 
精神科医、作家、評論家。
フランス留学の後、精神科医として慶應大学病院、国立療養所久里浜病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)、井之頭病院などに勤務。日本のアルコール依存症治療の先駆者といわれる。
作家としては『娘の学校』で婦人公論読者賞、『お医者さん』で毎日出版文化賞を受賞。また、6度も芥川賞候補になるが受賞しなかったという逸話を持つ。柔軟かつ骨太、ユーモアあふれる文体が特徴。
2003年にはインターネット上の仮想政党「老人党」を結成。著作『老人党宣言』とともに話題になる。
2013年6月6日死去。当日のブログ更新が最後の一文となった。

医師になるつもりはなかった

なだいなだは、祖父が医師であった母に、医師になることを強く期待されていた。「(試験を)受けて落ちれば母も納得するだろう」といくつかの学部を受験したところ、なんと医学部にのみ合格。母に「やりたいことがあれば医学部を卒業してからやればいい、浪人はさせない」と言われ、医学部へ進学することになった。
本人は数学者か作家になりたかったらしく、「何の因果か、私は医者になった。これは一次試験の高校の理科甲類に受からなかったからで、さもなければ、私は今頃、高名な数学者か(中略)、あるいは高校の数学教師にでもなっていることであろう」(出典:クレイジイ・ドクターの回想)と語っている。

最初の本がベストセラー、医師兼作家に

大学時代にフランスへ留学、後に妻となるフランス人女性と出会う。帰国後、作家になりたいと思いながらも医師として働く。久里浜病院に勤め始めたころは生活が苦しく、後に「家賃を払うと、光熱費を払うにも不足するありさま。(中略)今でこそ過去形で語れるけど、お先まっくらだった」と述べたほどだった。(出典:老人党宣言)
その頃、幼い娘たちに時事問題や思い出を綴った最初の本『パパのおくりもの』が、ユーモアのある語り口や人生への深い示唆で話題になりベストセラーに。これ以降、なだいなだは医師として働くかたわら多くの著作を発表するようになった。

アルコール依存症の専門医となる

精神科医のなだいなだは、35歳のとき久里浜病院に建てられた日本最初のアルコール専門病棟の責任者に命じられる。当時、アルコール依存症は治らないといわれており「治す自信がない」と教授に相談するが、「あれは治らん病気だ。おれにも治せない。だれが行っても同じだ。だからお前が行け」と言われてしまう。(出典:常識哲学)
なだいなだは「何をやっても治らないなら逃してやるのが一番よい」と考え、当時は閉鎖病棟での入院が当たり前だったアルコール依存症患者の病室の鍵を開け、逃げやすいようにお金を持たせるなどしてみたが、驚いたことに逃げる患者はいなかった。この経験から医師は何をなすべきか、支配とは何か、人間とは何かなど哲学的な問題を深く考えるようになる。

専門医としての経験が著書に大きな影響を与える

なだいなだは前述の経験を通し「アルコール依存は、誰かが治してやれるものではなく、本人自身の問題です。自分が努力しなければいけないということを理解するためには、まず自由であることが大切なのです」「人間と人間が孤立していない関係がある限り、人間はそこそこ自由にしてもやっていけると考えています」(出典:2011年7月15日朝日新聞)と語る。この気付きを得て身近な人間関係から国家までの自由と支配の関係を説いた著書、『権威と権力』はベストセラーとなった。
患者とのエピソードを軽妙な文章でつづった『クレイジイ・ドクターの回想』、世界の痛ましい事件をとりあげながら従来“非人間的”といわれた行為の中にひそんでいる人間性に光をあてたエッセイ『人間、この非人間的なもの』など、氏の作品には専門医としての経験や着想が多分に生かされている。
晩年は医師としての経験でたどり着いた哲学が、日常に応用できるのではないかと本の執筆をしていたが、病のため仕上げることができなかった。2014年5月に未完の原稿と、講演会の草稿などで構成した遺作『常識哲学 最後のメッセージ』が刊行された。

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