薬剤師と著名人エピソード 薬剤師と著名人エピソード
名作を著した作家や誰もが知っているような大企業の創業者。医療とは直接関わりのない業界で活躍した中にも、薬剤師資格や医師免許を持っていた人々がいるんです。彼/彼女は一体どんな人物だったのか? どんな人生を送ったのか? 意外な発見があるかもしれません。
第4回 O・ヘンリー(1862年〜1910年)
プロフィール
 
 
アメリカの代表的な短編小説家。貧しい人、移民、新興成金などを鋭い観察眼で描き「短編小説の名手」として親しまれている。ユーモアと機智に富む文章、意外な結末が特徴。作品には薬学の知識が反映された作品も散見される。代表作は『最後の一葉』『賢者の贈り物』など。

15歳で薬剤師見習いに

アメリカ・ノースカロライナ州で、医師アルジャーノン・シドニー・ポーターの息子として生まれる。3歳の時に母親を肺結核で亡くし、父親は酒に溺れ家計は逼迫。叔母エヴァリーナは私塾を開き、家計を助けながらO・ヘンリーに教育を施した。
O・ヘンリーは大学への進学を熱望していたが、経済的な理由で断念。叔父の経営するドラッグストアで15歳から薬剤師見習いとして働くことになる。19歳で正規の薬剤師の資格を取得し、5年間勤務した。
学業をあきらめ、家計のためだけに働いたこの薬剤師期間を、彼は「退屈極まりなかった」と語っている。しかし、「この時期の経験をもとにして描かれた2種の目的にニトログリセリンを使い分ける『操り人形』をはじめ、(※)」彼の薬剤師としての知識や経験が、後の創作活動に大いに役立ったのは事実であり、将来の「作家O・ヘンリー」にとっては無駄な期間ではなかったといえる。
また、内向的な性格であるものの悪ふざけは好きだったようで、この期間のいたずらが多く記録されている。中でも、医師の検査用の尿にシロップを混入したいたずらは、検査結果を見た医師が自分を重篤の糖尿病と思い込んでしまい遺言状まで用意する騒ぎになった。

結婚、初めての原稿料……幸せから一転、服役囚に

ドラッグストア勤務中に空咳がひどくなったため、療養目的で空気の乾燥したテキサスに移住。O・ヘンリーは友人の厚意で牧場で働くことになる。そのほかにもドラッグストア勤務、土地管理局や銀行の出納係など職を転々としながら、文学の素養や語学の腕を磨いていった。
この頃最初の妻アソルと結婚、文筆活動で初めて原稿料を受け取るなど、テキサス時代の数年間は彼にとって幸せな時期であった。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。息子は生まれてすぐに死亡し、娘は身体が弱く、妻は肺結核が悪化し衰弱していった。
悪いことはさらに続く。以前勤めていた銀行に横領の疑いをかけられて起訴され、妻と娘を置いてニューオリンズへ逃亡した。妻が危篤と連絡を受け家に戻るも、妻は亡くなってしまう。その後、有罪判決を受け5年間の服役を言い渡される。

服役、所内の薬剤師として信頼を得る

服役中のO・ヘンリーは所内の診療所に薬剤師として配属された。一般服役囚が行う雑役や仲間との付き合いから解放されたという点でも、薬剤師の資格が大いに役に立ったといえる。
薬剤師としての働きぶりは素晴らしく、「彼は並外れて優秀な薬剤師だったので、夜間は服役中の軽い病人を世話をすることが許された。彼は毎晩独房の並んだ区域で2、3時間を過ごして囚人たちの大部分と知り合いになり、彼らの身の上話を聞いていた。(※)」と医師による記述が残っている。
ちなみにO・ヘンリーが本当に横領したかについては、本人が抗弁せず生涯語りたがらなかったため、真相はわかっていない。

筆名「O・ヘンリー」の誕生

入所1年後あたりから、新聞社や雑誌社に掌編小説を送りはじめる。刑務所の郵便物は全て検閲されるため、このようなやりとりは明らかな規則違反であるが、O・ヘンリーを信頼する所内の医師をはじめ、彼を応援する職員が手を貸していた。
この頃の作品以降、彼は本名ではなくO・ヘンリーの筆名を使うようになる。そこには新しい名前で出発したいという気持ちの他に、外部とやりとりしている事実が発覚する恐れがあるため本名は使えないという事情もあった。O・ヘンリーは服役中14編の短編小説を書き、その内3編は在所期間に出版されている。

ニューヨークで売れっ子作家に

減刑され3年3ヵ月で出所した彼は、作家・ジャーナリストの仕事が多くあるニューヨークに移り住み、服役中遠ざかっていた酒を連日飲むようになる。この頃から名作『賢者の贈り物』をはじめ次々に作品を発表し、「名実ともに彼の文筆活動が花開いた年月であった(※)」。
売れっ子になった作家O・ヘンリーは幼なじみと再婚。ニューヨークに娘を呼び寄せ、3人で新しい生活を始めた。
しかし、この幸せも長く続かない。彼の飲酒と浪費によって家計は逼迫し、妻の懇願にかかわらず生活を改めようとしなかったため、まもなく家族はバラバラになる。
彼の身体は過度の飲酒による肝障害と糖尿病、心臓病でかなり衰弱していた。1人になった家で執筆中に意識を失い、病院に搬送されたが回復せず、1910年、47歳で生涯を終える。彼の死後、アメリカ国内における著書の発行数は10年間で500万部を超えたといわれている。

 
※出典は全て『「最後の一葉」はこうして生まれた O・ヘンリーの知られざる生涯』 齊藤昇 著(角川学芸ブックス)

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