薬剤師と著名人エピソード 薬剤師と著名人エピソード

名作を著した作家や誰もが知っているような大企業の創業者。医療とは直接関わりのない業界で活躍した中にも、薬剤師資格や医師免許を持っていた人々がいるんです。彼/彼女は一体どんな人物だったのか? どんな人生を送ったのか? 意外な発見があるかもしれません。
第7回 手塚治虫(1928年〜1989年)
プロフィール
 
 
大阪府豊中市に生まれ、兵庫県宝塚市で少年時代を過ごす。ストーリーマンガの第一人者として、日本のマンガ界における表現の基礎を作った。1963年、日本初の30分間のテレビアニメ『鉄腕アトム』を制作しアニメ界にも大きな影響を及ぼした。『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』など多数の代表作がある。

ストーリーテリングの基礎を育んだ少年時代

少年時代の手塚治虫は眼鏡をかけていて、やせ型で体が弱かったためクラスメイトのからかいの対象となっていた。手塚は毎日のように泣いて帰り、母親が「おかえり」の前に「今日は何回泣かされたの?」と聞くほどであった。
そんな中で親しくなった友人は大きな時計店の御曹司で、手塚を屋敷に招いては科学書や図鑑を見せてくれた。手塚は天文学や昆虫に深く興味を持つようになる。
「いじめっ子とまともに戦ってもかなわない、なにか特技を身につけなければ」と考えた手塚は、手品を練習したり、友人と本を作りクラスに配ったりした。
幼いころからマンガ絵を描いており、小学5年生のときに初めての長編マンガ『支那の夜』を完成させる。この作品は生徒のみならず教師の間でも話題となった。
上記のような努力に加え、マンガ好きの両親が買い与えた200冊以上のマンガを求めクラスメイトが自宅に訪れるようになったこともあり、次第にいじめはなくなっていった。
自宅には当時珍しかった手回し映写機があり、チャップリンやディズニー作品を自宅で観賞できたという。母に連れられて宝塚歌劇団を観賞することもあった。
手塚の類まれなるストーリーテリングの基礎は、両親の影響、友人との出会い、いじめを克服するための努力、マンガの練習を積んだ少年時代にあるといえよう。

戦争体験 「生きていてよかった」が生涯のテーマ

1941年、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学。すぐに軍需工場の勤労奉仕に行かされるようになる。この年の12 月、日本は第二次世界大戦に参戦する。
1945年6月、勤労奉仕中の監視哨(火の見やぐら)の上で、手塚は戦闘機B29の大編隊を見た。後に大阪大空襲と呼ばれるこの空襲で、手塚は防空壕への避難が間に合わずに自分のすぐ横を焼夷弾が突き抜けていく経験をする。生きのびた手塚は、多くの遺体が転がる火の海のなか、自宅までおよそ30kmの距離を歩いて帰った。
そして2ヵ月後、終戦を迎えた8月15日の夜。手塚は大阪・梅田にある阪急百貨店のシャンデリアが灯っているのを見る。戦中は灯火管制で真っ暗だった焼け野原の街に、こうこうと街灯がついていた。そのとき手塚は初めて「ああ、生きていてよかった」と思ったという。
このときの気持ちを著書『ぼくのマンガ人生』の中で「(前略)あと数十年は生きていられるという実感がわいてきたのです。ほんとうにうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。」と書いている。これが手塚の原体験となり、「生きていたという感慨、命のありがたさ」が生涯変わらないテーマとなった。

医師かマンガ家か

曽祖父が医師であったことや、中学時代に両腕にひどい発疹ができ医師に診てもらった経験から、医者になりたいと考えるようになる。
大阪帝国大学附属医学専門部(旧制)で医師を目指しながらも、マンガが大好きな手塚は授業中もマンガを描き続けた。臨床実習がはじまって予診(問診)をする立場になっても、患者の似顔絵を描きたくてうずうずしてしまうほどであった。
すでにこの頃、新聞や雑誌にマンガを描くようになっていたが、長編『新寶島』がベストセラーになると、学業のかたわら月間1、2冊描き上げなければならなくなる。
そのため学校の単位をずいぶん落としていた手塚は、教授に「ろくな医者にはなれない。あきらめてマンガ家になれ」と叱責される。母親に相談すると「自分がいいと思う道へ進め」とアドバイスを受け、手塚はついにマンガ家になることを決意した。しかしそこできっぱりと学業をやめたわけではなく、インターンと国家試験をこなし開業免許を取得している。インターン時代を除き、手塚が医師として診察したことはない。

肩書きはいらない

手塚の代表作のひとつ『ブラック・ジャック』は、医学生だった体験から描かれている。手塚のテーマ「生きていたという感動、生きているありがたさ」が反映されている作品である。
無免許の医師ブラック・ジャックは天才的な腕を持ち、引き受けた患者は必ず治す。しかし法外な治療費を請求するため、世間から大変嫌われているというキャラクターである。
手塚は肩書きが大嫌いだったという。「(前略)その人の肩書きよりも、心の底の人間性です。腕です。それが尊敬される人になってほしい。(中略)ぼくは医学博士なんていう名刺を出すようなことはありません。ぼくは一人の社会人であり、絵が描けますということで世界中通しています。(中略)つきあっていると、「手塚さん、いい人ですね」と言ってくれます。そう言ってくれるとほんとうにうれしい。みなさんもぜひそういう人になってほしいのです。(※1)」と書いている。
手塚氏は無免許のブラック・ジャックを通して「肩書きを持つことが立派なのではない。人として大切なのは人間性なんだよ。尊敬されるような中身のある人になりなさい。」と子どもたちに伝えようとしたのかもしれない。
著書『ぼくはマンガ家(文庫版初版)』の中の解説はこう結ばれている。「手塚治虫は医学博士でもあり、また文筆、プロデューサー、映画監督等さまざまな仕事をしてきた。しかし生前、マンガとはまったく無縁の本に文章を載せた時、肩書きはどうしたらと問われると、手塚は即座に答えた。『”ぼくはマンガ家”です』」
 
※参考文献
『ぼくのマンガ人生』手塚治虫 著(※1)
『ぼくはマンガ家』手塚治虫 著
『ブラック・ジャック創作秘話』宮崎克 原作 / 吉本浩二 マンガ

お知らせ
宝塚市立手塚治虫記念館

宝塚市立手塚治虫記念館

手塚治虫が5歳から約20年間を過ごした兵庫県宝塚市に、作品の中で唱え続けた「自然への愛」と「生命の尊さ」をテーマに、1994年に開館。手塚治虫の生涯をたどる常設展示を始め、全作品が読めるライブラリーやアニメの制作体験ができるアニメ工房などがある。

所在 〒665-0844 兵庫県宝塚市武庫川町7番65号

開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)

休館 毎週水曜(祝日と重なる日、春・夏休みの水曜日は開館)、
12月29日~31日、2月21日~2月末日、その他臨時休館あり

 JR・阪急宝塚駅より徒歩8分、阪急宝塚南口駅より徒歩5分

URL http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/

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