薬剤師と著名人エピソード 薬剤師と著名人エピソード
名作を著した作家や誰もが知っているような大企業の創業者。医療とは直接関わりのない業界で活躍した中にも、薬剤師資格や医師免許を持っていた人々がいるんです。彼/彼女は一体どんな人物だったのか? どんな人生を送ったのか? 意外な発見があるかもしれません。
第9回 石井絹治郎(1888年~1943年)
プロフィール
大正製薬の創業者・初代社長。実業家。売薬法改正運動に奔走し、財界に知己を得る。数々の委員や委員長などを歴任し、薬剤師の地位向上に尽力。55年の短い生涯にも関わらず、多くの事業を成し遂げた。
大正製薬の創業者・初代社長。実業家。売薬法改正運動に奔走し、財界に知己を得る。数々の委員や委員長などを歴任し、薬剤師の地位向上に尽力。55年の短い生涯にも関わらず、多くの事業を成し遂げた。

将来の夢は代議士

1888年、香川県三豊郡比地二村(現・三豊市高瀬町)農業を営む石井兵吉・ハルの三男として生まれる。子ども時代の絹治郎は、日曜日になると畑仕事をしたり、ワラを打って草履を作る手伝いをしたりと両親を助けた。学校では口癖のように「おれは将来代議士になるんだぞ(※)」と話していたという。
上京して一旗あげたいと思っていたようだが、生活は豊かではなかったため叶わず、尋常小学校卒業後は菓子屋の見習いとして奉公に行くことになった。

親元を離れ13歳で上京、最年少で薬剤師試験に合格

奉公中の1901年、親戚の石井殷太郎が、輸入薬の取次販売事業を起こすため東京へ移住。東京に憧れを持っていた絹治郎は、とにかく東京へ行けるのならと、菓子屋を辞めて“薬業見習い”という形で殷太郎についていく。13歳のときである。
 
1904年に日露戦争が開戦。医薬品・輸入薬の需要の増加、価格の高騰をみて、絹治郎は製薬業に商機を見出す。輸入品に代わる良心的な薬をつくろうと、神田薬学校夜間学部(1906年明治薬学校に改称、現・明治薬科大学)に入学。
 
1906年、18歳の絹治郎は最年少で薬剤師試験に合格したが、当時は満20歳にならなければ薬剤師免状は下付されなかったため、2年間保留となる。この2年間に宮内省の侍医寮薬局で助手を勤め、調剤技術を習得した。

薬局を開設。製薬業に移り、株式会社大正製薬へ

薬剤師免許が下付された1908年、牛込区市谷左内坂町(現・新宿区市谷左内町)に泰山堂薬局を開設。郷里から家族を呼び寄せて、薬局経営と売薬製造に従事した。当時は国内でコレラが流行し、脚気と結核が国民病であった。画期的な治療法もなく、栄養・安静・転地が推奨されており、滋養強壮剤の研究に期待がかけられていた時代である。
 
薬局経営が軌道に乗ったところで、念願の製薬の手始めとして売薬製造に着手。滋養強壮剤の製造にあたって安く手に入る牛血に着目し、日夜研究に没頭して粉末化に成功する。牛血粉末を使用したヘモグロビンの錠剤とヘモグロビン菓子(チョコレートで粉末をコーティングしたもの)を開発した。1912年に大正製薬所を発足して商品化、これらの販売を始める。
 
関東大震災の後の金融大恐慌のなか、大正製薬所は資本を集めて株式組織に改組し、1928年に株式会社大正製薬が誕生した。

売薬法改正など、薬剤師の地位向上を目指す

絹治郎は薬剤師の資格を取得した1908年に日本薬剤師会に入会。1912年、日本薬剤師会東京府選出予備代議員に当選する。
 
当時は「薬剤師に限って売薬調整権を与える」ことに主眼をおいた売薬法改正をめぐって政治活動が白熱していた。若年の絹治郎は同志と手分けして各代議士を説得するため訪問してまわり、賛同を求めるロビー活動に励んだ。そして同志たちとの努力が実り、1914年に改正売薬法が成立した。
また、1925年には薬剤師と薬品営業者を同列に規定していた身分法を改めた薬剤師法案が成立。ここでも絹治郎が同志とともに活動している。
 
その後も多数の委員会の委員や委員長を歴任し、医薬分業運動や日本微生物研究所の設立など、日本の製薬界ならびに薬剤師界に貢献した。
絹治郎は東京商工会議所満鮮北支経済視察団長として中国へ渡った際にチフスに感染。1943年に55年という短い生涯を終えた。
 
※ 出典:『父の思い出―石井絹治郎伝』 石井輝司 著、広川書店 刊

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