薬にまつわるエトセトラ 更新日:2023.03.03公開日:2017.06.06 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。

第32回「AI創薬の波」

 

近年は人工知能(AI)がブームとなっており、テレビや雑誌、ウェブニュースなどで「AI」の文字を見ない日はないほどになっています。このブームの火付け役になったのが、ディープマインド社の囲碁AI「AlphaGo」です。2016年3月に韓国出身のトップ棋士イ・セドル九段と対戦、事前の予想を覆して4-1のスコアで圧勝し、世界を驚愕させたのは記憶に新しいところです。

「AlphaGo」の進撃はこれで止まりませんでした。2017年1月には新バージョン「Master」としてネット対戦サイトに登場、世界の並みいるトップ棋士を片端からなぎ倒し、60戦全勝という驚異的な戦績を挙げました。5月には囲碁の世界ランキング1位の柯潔九段(中国)と対戦、これも3-0で完勝しています。内容的にもまわしに手が届かなかった感があり、強気で鳴る柯潔九段が対局途中で悔し涙を流す場面もあったようです。

筆者も囲碁が趣味ですので興味深く見守っていましたが、人工知能の進化は凄まじく、イ・セドル戦から柯潔戦までのわずか1年ほどの間に、人類の100年分ほどの進歩を遂げてしまった印象です。

「AlphaGo」は数千万局の自己対戦を繰り返して研鑽を積み、新たな戦法を数々創造してきました。これまでコンピュータには再現が難しかった「感覚」の部分で、「AlphaGo」は人類をはるかに上回ってみせたのです。逆に言えば、コンピュータに「感覚」「直感」を学ばせる舞台として、囲碁というゲームは最適であったということでしょう。

柯潔九段との対局終了後、「AlphaGo」は「引退」を発表しました。今後、ディープマインド社のチームは囲碁専用AIの開発を終え、ここで得た技術を難病治療・エネルギー問題・画期的新素材の開発などに振り向けていくと述べています。

ディープマインド社に限らず、世界の研究者が人工知能の応用先として真っ先に狙ってくるのは、医療・医薬の分野であることでしょう。人類への貢献という意味でも、巨大な利益が見込めるという面からも、この分野こそは最も好適なターゲットであることは間違いありません。

その動きも、すでに始まっています。たとえば日本電気(NEC)は昨年末、医療分野に参入してがん治療法の開発に取り組むと発表しました。免疫を活性化するペプチド配列を人工知能によって高速に探し出し、これによってリンパ球を活性化してがん細胞を叩かせるというものです。

製薬大手の第一三共も昨年、IBMの「Watson」と契約し、これを新薬開発に役立てていくと発表しました。IBM社は、「Watson」は「コンピュータでありながら、人と同じように情報から学び、経験から学習するコグニティブ・テクノロジー」であると紹介しており、2011年には米国の番組でクイズ王と対戦し、勝利したことで有名になりました。2016年には、膨大な医学文献を読んで「勉強」した「Watson」が、ある女性患者の白血病が珍しいタイプのものであると見抜き、適切な治療法を助言して人命を救ったことが話題になっています。

第一三共では、この「Watson」の能力をスクリーニング効率の向上、研究テーマの決定などに活かし、創薬サイクルの短縮を図るとしています。具体的な活用方法などは明らかにされていませんが、どのような効果が挙がるか注目です。

人工知能の活用は、創薬だけにはとどまりません。副作用の予測や、ドラッグリポジショニング(本連載第26回参照)などへの適用も研究されています。どの分野かで成果が挙がるのも、そう遠くないことでしょう。また、新薬の審査承認プロセスに自然言語処理可能な人工知能を適用し、ここにかかる時間を短縮するようなことも考えられます。

しかしやはり本命は、新規な医薬化合物のデザインと評価ということになるでしょう。囲碁でのシステムから想像するなら、たとえばある分野の過去の論文から化合物を抽出し、そのデータを元にコンピュータ内で「最適化」を行い、一気に新薬を生み出すようなことが考えられます。

囲碁の打ち手のパターン数は、10の360乗通りの可能性があるといわれます。一方、現在低分子医薬として想定される分子量500以下の化合物の可能性は、10の60乗通りと計算されています。だから囲碁より創薬のほうが簡単だ――というほど単純ではないでしょうが、これから膨大な資金と頭脳が投じられるであろうことを思えば、AI創薬は決して遠い夢物語などではなさそうです。

囲碁の場合、2015年の段階ではコンピュータがトップ棋士と対局する場合、3~4子程度のハンデが必要でした。これはアマチュアの強豪にも及ばぬレベルで、人間に勝つにはまだ10年以上かかると思われていました。しかしグーグルの資金と頭脳が投じられるや、たった1年で一気に人類を抜き去ったわけです。

ここから数年のうちに一気に画期的なシステムが登場し、製薬業界やそれを取り巻く環境が一変するような可能性も、十分にあると見なくてはなりません。しばらくは、成り行きに注目すべきでしょう。

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

ブログ:有機化学美術館・分館

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

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