学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。
今や世界のどこでも当たり前に行われるようになった「予防注射」の原理が、初めて発見されたのは18世紀末のことです。イギリスの医師エドワード・ジェンナーが、牛痘にかかった人の水疱を他の人に接種することで、天然痘にかからなくなることを実証した話は、非常に有名でしょう(ワクチンという言葉は、ラテン語で雌牛を意味する「vacca」に由来)。以来200年あまり、ワクチンは多くの人の命を救い続けており、人類史上最大の発明のひとつにも数えられています。
病原体から作った抗原を体内に投与することで、抗体の産生を促して感染症を予防する(あるいは感染しても軽症で済むようにする)というワクチンの基本原理は、ジェンナーの時代から変わってはいません。しかし近年、これらとは異なり、すでにかかってしまった病気の治療を目的とするワクチンが研究されるようになってきました。
これら「治すワクチン」の中でも最も重要なのは、やはりがんワクチン療法でしょう。今までにもB型肝炎やヒトパピローマウイルス(HPV)などのワクチンのように、がんの原因となりうるウイルスの感染を防ぐことで、将来的ながんの発生を防ごうというものはありました。近年研究されているのはこれとは異なり、すでに発生したがん細胞を狙い撃つためのワクチンです。
よく知られている通り、免疫系は体内に入ってきた異物を認識し、これに結合・排除する仕組みです。がん細胞はさまざまな変異を起こしているとはいえ、基本的に自分自身の細胞ですから、なかなか免疫細胞はこれを都合よく攻撃してはくれません。
そこで、がん細胞に特有のペプチド(アミノ酸10個前後がつながったタンパク質の小片)を作って体外から投与し、これを免疫系に「敵」と認識させることで、がん細胞を攻撃させる手法が研究されています。これが「がんペプチドワクチン」と呼ばれる手法です。
古典的な抗がん剤は、がん細胞と正常細胞を区別することなく攻撃してしまうため、強い副作用が避けられません。しかしこのペプチドワクチンによる方法は、がん細胞だけを狙い撃ちしてくれるため、今までのところ強い副作用はみられていません。
こうしたがんの免疫療法に関しては、オプジーボに代表される免疫チェックポイント阻害剤の成功があり、そちらに注目が集まっていました。しかしオプジーボも、著効率が20%程度と決して高くないこと、また非常な高薬価という問題があり、低コストなペプチドワクチン療法に再度光が当たっている状況です。
現在、塩野義製薬ががんペプチドワクチンの臨床試験を進めており、量産化研究も進展しつつあります。がん治療の新たな選択肢となりうるか、注目されます。
一般にも関心が高そうなのは、スギ花粉症のワクチンでしょう。今まで花粉症の完治を目指すには、花粉のエキスを注射して体を慣らす「減感作療法」くらいしかありませんでしたが、これにはアナフィラキシーショックなどの危険が伴います。これを避けるため、スギ花粉の抗原の構造を変えたものを接種する研究が進められています。うまく行けば数回のワクチン投与で、つらい花粉症を根治できますので、臨床試験の結果が期待されます。
また、高血圧のような生活習慣病にも、ワクチンによる治療が試みられています。ここで用いられているのは、「DNAワクチン」と呼ばれるタイプの新しいワクチンです。これは体内に抗原となるタンパク質を投与するのではなく、そのタンパク質の配列をコードしたDNAをプラスミドの形で注入するものです。体内でこのDNAの遺伝情報をもとに抗原となるタンパク質が作られ、効果を発揮するというものです。
高血圧ワクチンにおいては、昇圧ホルモンであるアンジオテンシンⅡを組み込んだタンパク質が作られます。この配列を記憶した抗体は、本物のアンジオテンシンⅡのはたらきをも抑えるため、血圧上昇が防がれるという仕組みです。
今のところ、高血圧ワクチンは1回の投与で数ヶ月以上効果が持続すると考えられています。ARBやACE阻害剤など降圧剤を毎日飲み続けるよりも格段に楽というメリットはありますが、病状を見ながら投与量・間隔を調整するようなことができない可能性もあります。このあたりがどうなるか、現在進行中の臨床試験の結果が注目されます。
また以前も書いた通り、アルツハイマー型認知症のワクチン治療なども考えられています。ワクチンは、いまや単なる予防注射というイメージを脱却し、医療の現場全体で活躍するツールに変貌しつつあります。ワクチンの存在は、今後の創薬の考え方にも大きく影響してくるのでは、という気がします。