学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。
本連載の前々回にて、既存の医薬を他の分野で再活用する「ドラッグ・リポジショニング」という考え方を紹介しました。一言でいうなら、医薬の「転職先」を探す作業といえるでしょう。さまざまなジャンルでこのドラッグ・リポジショニングが進められており、中には意外な場所で活躍の場を見出すものもあります。最近、際立ってユニークなケースが報告されたので、ここでご紹介しましょう。
歯学部、歯科医師という独立した学部や資格が存在していることからもわかる通り、歯科治療は医学の中でも際立って特異な位置を占めています。何しろ歯というのは、全身の中で唯一硬い組織が表面に露出している場所ですから、治療法もまったく独特なものとなるのが当然なのです。
もちろん、医薬も虫歯の予防や治療に活かされています。歯の表面のエナメル質を酸に侵されにくくするフッ素剤はよく知られていますし、虫歯の原因菌を殺菌することで治療を助ける医薬もあります。とはいえこれらは、深く進行してしまった虫歯を根本的に治すようなものではありません。虫歯の治療は、悪いところを削って詰め物をすることが基本となります。
しかし最近、一度侵食された歯を再生させるという、画期的な治療薬の可能性が示されました。これがどこから来たかといえば、なんと元はアルツハイマー症の治療薬として試験中の化合物でした。チデグルシブといい、体内でグリコーゲン合成を制御する作用を持つ、「GSK-3」というタンパク質のはたらきを阻害する物質です。グリコーゲンとアルツハイマー症と虫歯治療にいったいどんな関わりがあるのか、不思議になるような話です。
GSK-3は、特定のタンパク質に対して、リン酸を取りつける役割を持ちます。リン酸はほんの小さな原子団に過ぎませんが、巨大なタンパク質に取りつけられるとその構造とはたらきを変化させてしまうのです。リン酸がグリコーゲンの合成酵素に取りつけられれば、この酵素はグリコーゲンを作り出すことをやめてしまいます。
その他にGSK-3がリン酸を取りつける相手として、脳内にあるタウタンパク質があります。こうしてできた、リン酸のたくさんついたタウタンパク質が脳の機能を破壊し、アルツハイマー症を引き起こすとする説があるのです。
ということは、この余計なリン酸化をしてしまうGSK-3のはたらきを薬によって止めれば、アルツハイマー症の進行を食い止められる可能性があります。チデグルシブはこれを狙って作り出された化合物であり、現在ヒトでの臨床試験が進行中です。
しかしGSK-3の作用は、これにとどまらないのです。GSK-3は、幹細胞(さまざまな細胞に分化する能力を備えた細胞)の能力を維持することにも関わります。このはたらきを阻害するチデグルシブは、ふだんは他の細胞に化けることのない幹細胞の眠った力を引き出し、分化を促す力を持つのです。
小さなスポンジにチデグルシブを含ませ、虫歯の穴に詰めてやると、まわりにある幹細胞を分化増殖させ、歯の象牙質を再生させることがわかりました。スポンジはコラーゲンでできていますので、徐々に分解してなくなり、象牙質に置き換わっていくという仕掛けです。
現在用いられているセメントなどの詰め物は、歯の強度を弱めてしまう上、何年かしたら取り替えねばなりません。自分の細胞を再生させて穴を修復できるなら、そのほうがずっとよいのは当然のことです。
ということで、実用化されれば素晴らしい歯科治療となりそうな手法には違いありません。ただし、まだマウスによる動物実験の段階であり、ヒトに用いられるようになるのはまだまだ先のことです。いろいろなところに作用するチデグルシブが、思わぬ副作用を引き起こす可能性も十分にありえます。うまくいくかどうかは、神のみぞ知るというところでしょう。
とはいえ、アルツハイマー症の治療薬が虫歯の治療薬に化けようとはなかなか思わぬところで、人体と医薬の関係はやはり奥深いと感じます。また、画期的な医薬がなかなか出にくくなったといわれる中でも、こうした思いもかけぬ可能性がまだまだ残っているあたり、創薬というものはやはり面白いものだと思わされます。