学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。
薬学者は紙幣の「顔」になれるか
渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎の3名が2024年から導入される新紙幣の「顔」となることが発表されましたが、今後薬学者が選出される可能性はあるのでしょうか?
“明治日本の発展に貢献した面々”
先日、2024年から用いられる新しい紙幣のデザインが発表となりました。新紙幣の肖像として選ばれたのは、一万円札が渋沢栄一、五千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎という面々でした。それぞれ、経済、教育、科学の面から明治日本の発展に大きな功績のあった人物であり、非常に妥当な人選と思えます。
現行の千円札の顔は、ご存知の通り野口英世です。ただし野口は、知名度こそ抜群ではありますが、借金の踏み倒しや結婚詐欺に近い行為などもあったといわれ、紙幣の顔としてふさわしいのかという批判はありました。また彼の業績の多く(梅毒や黄熱病病原体の純粋培養など)は後世になって否定されており、この点からも少々疑問符がつきます。
その点、今回選ばれた北里柴三郎は、ペスト菌の発見、破傷風菌の初の純粋培養、血清療法の確立など、ノーベル賞を受賞していないのが不思議なほどの業績を挙げています。
また、北里研究所(現在の北里大学の母体)や慶応大学医学部を創設するなど、後進の育成の面でも大きな功績がありますので、千円札の顔として文句のない人物といえるでしょう。
今後選ばれるのは誰?
これまで、紙幣は偽造防止のため、約20年ごとにデザインを刷新してきました。今後も引き続き科学者が選定される可能性は、十分にありそうです。ではこの「科学者枠」に、医療・医薬関連の人物が選ばれることはあるでしょうか?
医薬関連でいうなら、「日本薬学の父」と呼ばれる長井長義(ながい・ながよし)の名が挙がりそうです。エフェドリンの発見及び合成という業績の他、日本薬学会初代会頭として日本薬局方の整備を行うなど、学問及びシステムの両面から、現代薬学の基礎を築いた人物といえます。日本女子大学の設立など教育の分野でも大きな功績があり、日独交流にも力を入れたなど、様々な面から見て北里柴三郎にも決して見劣りしません。
明治期に活躍した科学者としては、鈴木梅太郎(すずき・うめたろう)も実績十分です。彼は、脚気が栄養成分の不足によって起きる病気であることを実証し、その成分を米糠から取り出して「オリザニン」と命名したことで知られます。オリザニンは現在でいうビタミンB1であり、このため鈴木は現代ビタミン学の父とされます。
また、鈴木門下の高橋克巳(たかはし・かつみ)によるビタミンAの結晶化も大きな成果といえます。これは「理研ビタミン」として販売されて、爆発的な売上を記録しました。後に理研は多くの会社を設立し、日本の産業発展を支えましたが、ここに鈴木らの研究は大いに貢献しています。
元創薬研究者である筆者としては、秦佐八郎(はた・さはちろう)の名も挙げたい気がします。秦は北里柴三郎の弟子であり、ドイツのエールリッヒと共に梅毒の治療薬サルバルサンを発見した人物です。感染症の化学療法の道を切り開いたこと、合成化合物のスクリーニングという、現代に続く創薬技術を確立したことは、史上に燦然と輝く業績といえるでしょう。
と、ご覧いただいたように、長井・鈴木・秦とも実績は十分ですが、残念ながら国民的な知名度という点ではあまり高いとはいえず、この点で紙幣の肖像になるにはちょっと不利かもしれません。逆に言えば、素晴らしい実績を挙げているからこそ、紙幣の肖像にでも選ばれて、もっと世に知られるべきとも思います。
現富山県高岡市で生まれた高峰譲吉。現在は「高峰公園」となっている生家跡地に銅像が建てられている。
またアドレナリンの発見者・高峰譲吉(たかみね・じょうきち)などは、理研や三共(現・第一三共)の創始者の一人でもあり、研究者としても経営者としても第一級の人物です。ただし、紙幣の肖像になることが、特定の企業の利益になりうる人物は選ばれにくいともいわれるので、この点がネックかも知れません。
現存の人物では?
ここまで明治期の人物を挙げてみましたが、たとえば100年後にお札に載るような、存命の科学者は誰がいるでしょうか?筆者の個人的な意見で、最も可能性が高いのは、京都大学の山中伸弥(やまなか・しんや)教授ではないかと思います。氏の開発したiPS細胞は、再生医療の分野で実用化に大きく近づいていますし、創薬のツールとしても活用されています。新元号選定の際に、有識者懇談会のメンバーとして招かれていたのも、単なる一研究者の枠を超えて、現代日本を代表する文化人とみなされていることの現れでしょう。
もちろん、最近ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智(おおむら・さとし)博士、本庶佑(ほんじょ・たすく)教授らが選ばれる可能性も、十二分にあるでしょう。22世紀の紙幣に選ばれるべき平成の偉人に事欠かないのは、大いに喜ばしいことと思えます。もっとも、その頃にまだ紙幣というものが存在しているのか、またその頃には医薬はどんな姿になっているのか、筆者には想像もつかないところではありますが……。