薬にまつわるエトセトラ 更新日:2023.03.03公開日:2020.01.14 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第63回

デジタルヘルスケアに打って出る製薬企業たち

 

新たな収益の芽として製薬企業が注目するのがデジタルヘルスケアの分野。医薬に比べ危険性や開発コストを抑えられるというメリットがあることからさまざまな企業が参入しています。その最新事情を紹介します。

 

医薬品業界の新しい波

本連載で何度も述べている通り、製薬業界は現在大きな変革の波にさらされています。長らく収益の柱であった合成低分子医薬は行き詰まりが指摘されており、抗体医薬を始めとしたバイオ医薬が台頭しています。しかしこれら新たなタイプの医薬は、既存の低分子医薬とは全く異なるノウハウを要し、研究開発に必要な資金も莫大なものになります。中小の製薬企業には気軽に手を出せるものではありませんし、大手でも成功しているといえるところは多くありません。

一方で、度重なる薬価改定によって長期収載品の価格は大幅に引き下げられており、これらを主力とする企業の収益に大きな影響が出ています。もはや「新薬を創り出せない企業は市場から去れ」と、行政側からメッセージを突きつけられているに等しい状況といえるでしょう。

そこで製薬企業各社から注目を受けているのが、デジタルヘルスケアの分野です。スマートフォンのアプリやウェアラブルデバイスなどを活用し、疾患の治療や予防に役立てようというものです。心拍数や歩行距離など各種生活活動データから健康状況を把握したり、データ分析から発症の時期予測を行ったりするなど、その応用範囲は多岐にわたります。

中でも効果が期待されているのは、精神医療の領域です。視覚や聴覚を通じた刺激により、患者の行動や心理状態に影響を与えることは、今までの医薬には全く手の届かなかった領域です。医師の診察と異なり、個々の患者を24時間いつでもケアできるのも、大きな強みでしょう。

たとえば米国のピア・セラピューティクス社は、ノバルティス傘下のサンド社との提携の下、薬物依存症の治療を支援するスマホアプリ「reSET」を開発しました。このアプリには、①患者に行動認知療法のレッスンを行なう②服薬の時間が来たら通知を送る③ドラッグを再開したくなってしまう刺激(トリガー)を感じたときに医師に報告する――といった機能が組み込まれており、総合的に依存症治療を助けるものとなっています。reSETは臨床試験で効能を認められ、2017年にアメリカ食品医薬品局(FDA)からアプリとして史上初の承認を得ています。

こうした動きに乗り遅れまいと、内外の製薬企業がデジタルヘルスケア領域に乗り出しています。製薬企業は、臨床試験のノウハウや医療関係者へのネットワークなど、医療分野において多大な蓄積を保持しています。またIT企業にとっても、健康・医療分野は未開拓の魅力的な領域です。そこで両者が手を組んだ、新たな取り組みがあちこちで始まっています。

 

意外なコラボ続々

たとえば塩野義製薬は、米国のベンチャーであるアキリ・インタラクティブ・ラブズ社と組んで、ADHD治療アプリの臨床試験を日本で開始すると発表しました。同社の手代木功社長は、「どのくらいのタイミングで収益につながるかわからないが、今、手をつけておかなければ、乗り遅れたら、大変なことになるだろう」とコメントしています(産経新聞[2019年6月4日]より)。

またアステラス製薬も、運動が必要な人を支援するアプリを開発するため、バンダイナムコ社と提携することを発表しています。運動をゲーム化し、楽しんで続けられるようにすることを目指しており、2019年度中に臨床試験を開始すると発表しました。その他、ゲーミフィケーションの手法を研究するバーチャルラボを東京芸術大・横浜市立大と共に発足するなど、今までなら考えられないコラボレーションに次々と取り組んでいます。

デジタルヘルスケアの手法は、通常の医薬に比べて副作用などの危険性は少なく、開発費用もはるかに低く抑えられると考えられます。企業イメージの向上などにもつながりそうですから、積極的に打って出たくなる要素は揃っています。

 

デジタルの未来は?

とはいったものの、こうしたデジタルヘルスケア分野の売上はまだまだ小粒であり、将来は未知数です。研究開発費用に年数千億円を投じねばならない大手製薬企業にとって、腹の足しになるような利益を稼ぎ出してくれる日は来るのか、疑問視する声も少なくありません。

実際、いったん乗り出したデジタルヘルスケア分野から、製薬企業が手を引く動きもすでに起こっています。先に出てきたピア・セラピューティクス社のreSETは、前述の通りサンド社との提携の下で開発されたものですが、すでにこの提携は解消されています。

またフランスのサノフィ社も、グーグル傘下の企業と組んでオンデュオ社を設立し、2型糖尿病患者の病状管理を行なうことを目指していましたが、最近になって撤退が発表されています。

このように現状は各社の手探り状態で、この先どこが成功するか、一時の流行で終わるのかはまだ予測がつきません。とはいえ、今後様々な形でIT技術と医薬の融合が進むことは間違いないと思われます。薬剤師のみなさんも、注目しておくべき分野ではないでしょうか。

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※この記事に掲載された情報は2020年1月14日(火)時点のものです。


佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。