薬にまつわるエトセトラ 公開日:2025.01.09 薬にまつわるエトセトラ

薬剤師のエナジーチャージ薬読サイエンスライター佐藤健太郎の薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第123回

トフェルセンとは?日本でも承認されたALS新薬により難病治療に光は射すか

未解明の難病・ALSとは

医学が発達した現在にも、いまだ十分な治療手段のない病気は存在します。そのひとつに、筋萎縮性側索硬化症(略称ALS)があります。運動をつかさどる神経が機能を失ってゆくことにより、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて、体を動かせなくなる病気です。
 
この病気が有名になったきっかけは、メジャーリーグで三冠王、2130試合連続出場などを成し遂げた名選手ルー・ゲーリッグでした。1939年、彼はALSを発症し、引退を余儀なくされます。涙の引退から2年後、ゲーリッグは37歳の若さで世を去りました。このことから、ALSは「ルー・ゲーリッグ病」と称されることもあります。
 
ALSにかかった人物としては、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士も有名です。氏は21歳の時にALSの診断を受けましたが、50年以上にもわたって闘病しつつ、宇宙の起源の解明に挑み続けたことで知られます。
 
このように生存期間には大きな個人差がありますが、呼吸補助を行わなければALS発症からの生存期間の中央値は3~4年とされます。国内には約1万人の患者がいますが、治療法は未確立です。
 
参照:筋萎縮性側索硬化症(ALS)(指定難病2)|難病情報センター
 
治療薬としては、グルタミン酸拮抗剤リルゾール(商品名リルテック)やラジカル消去薬エダラボン(商品名ラジカット)が認可されていますが、病状の進行をわずかに遅らせる程度であり、十分な治療効果を持った薬剤が強く望まれています。

 

ALSの原因とトフェルセン

ALSの発症原因は、今でも完全にはわかっていません。患者の約10%は家族内で発症し、いくつかの原因遺伝子が知られています。そのうち一番多いのは、スーパーオキシドジスムターゼ(SOD1)遺伝子の異常です。
 
この変異型SOD1タンパク質は、通常と異なる立体構造をとっているため凝集しやすく、これが脊髄運動神経細胞に障害を引き起こすと考えられています。つまり、SOD1タンパク質の産生を抑えれば、症状の進行を押し止めることができると予想されます。
 
参照:家族性ALS原因遺伝子産物である変異型SOD1によって引き起こされる神経軸索輸送障害|国立精神・神経センター 神経研究所
 
2023年4月、米国食品医薬品局(FDA)は、この作用を持った新薬・トフェルセンの製造販売を迅速承認しました。2024年12月には、日本の厚労省の専門部会もこの医薬に承認を与えています。
 
参照:ALS治療薬「トフェルセン」の承認を厚労省専門部会が了承 特定の遺伝子変異の患者対象|産経新聞
 
この「迅速承認」というのはいわば医薬の仮免許であり、臨床試験の一部を省略して早期に承認する制度です。重篤な疾患に対する有望な薬を、正式承認前にできるだけ早く患者に届けることを目的としています。市販後に有効性・安全性などが確認されれば、晴れて正式承認ということになります。
 
臨床試験の結果を見ると、トフェルセン投与によって脳脊髄液中のSOD1濃度が低下することは示されています。症状の進行を抑制する傾向は見えているものの、症例数が少ないため有意な差ではありません。本来なら症例数を増やして確認すべきところですが、多くの患者が待ち望んでいる薬であることを考慮し、迅速承認の措置がとられました。
 
参照:臨床試験の結果について SOD1-ALS 患者を対象としたトフェルセン(BIIB067)の効果と安全性を評価する試験|バイオジェン

 

トフェルセンは「設計図を殺す」?

ではトフェルセンは、どのようにSOD1タンパク質の生成を食い止めるのでしょうか。トフェルセンの有効成分は通常の低分子ではなく、20個のヌクレオチドが連結したオリゴヌクレオチドです。
 
トフェルセンは、SOD1タンパク質の設計図となるmRNAと相補的な塩基配列となっています。トフェルセンを体内に投与すると、このmRNAとしっかり結合し、設計図としての働きを抑え込んでしまうのです。これによって異常なSOD1タンパク質の生成を減らし、その蓄積を防ぐというメカニズムです。
 
このような、タンパク質合成に関わる情報を含んだ鎖をセンス鎖、これと相補的な配列を持つ鎖をアンチセンス鎖と呼びます。つまりトフェルセンはアンチセンス鎖であり、こうしたタイプの医薬をアンチセンス医薬と呼びます。
 
もちろん、単純なヌクレオチド鎖を投与するだけでは、体内に待ち構える各種の酵素によってすぐさま分解されてしまいますので、これを防ぐ様々な仕掛けがなされています。こうした技術の進歩もあり、核酸医薬の種類はなお増えつつあります。

 

待ち望まれていた薬

トフェルセンは待ち望んでいる患者が多いことから、米国FDAでは他の薬よりも優先的に審査を進める措置がとられました。この結果、審査開始からから9ヶ月という異例の速度で、承認にこぎつけています。
 
また我が国でも、2024年3月に日本ALS協会がバイオジェンに対し、「人道的見地から実施される治験(拡大治験)」実施の要望書を提出しています。武見敬三厚生労働大臣(当時)も衆議院予算委員会において、トフェルセンの迅速な審査と承認を行う予定と答弁しました。今回の素早い承認は、多くの関係者が努力した結果であると思われます。
 
参照:SOD1-ALS治療薬トフェルセンの「人道的見地から実施される治験(拡大治験)」実施の要望書を製薬会社に提出しました。|日本ALS協会
 
とはいえ、前述したようにトフェルセンは、ALS全患者のうち2%にしか効果がありません。他のタイプにも効く薬を待望する患者は多く、今後さらなる新薬の登場が求められる分野です。

 

 
 


佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。