
学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

ドラッグ・ロスの時代~新たな「ラグ」と「ロス」の原因とは?
21世紀始めのころ、ドラッグ・ラグという言葉が盛んに使われました。海外で使われる薬が日本に入ってくるまで、大きなタイムラグが生じていた問題を指す用語です。これは関係者の努力もあって解消に向かい、一時ほど騒がれることはなくなりました。
ところが最近、「ドラッグ・ロス」という言葉が登場してきました。海外の医薬品が日本に入ってくるのが遅れるどころではなく、そもそも入ってこない状態を指す言葉です。なぜこのような事態が起きているのか、今回はそのあたりを探ってみましょう。

ドラッグ・ラグの原因
まず、かつていわれていたドラッグ・ラグは、なぜ発生したのでしょうか。この時期、海外の医薬が入ってくるまでの障壁になっていたのは、主に日本と欧米の臨床試験システムの違いでした。
体内に入った医薬を代謝分解する酵素は、民族によってかなり差があることが知られています。このため海外での臨床試験結果がすでにある場合でも、日本でも第I相から臨床試験を行うことが徹底されています。
また日本では、臨床試験を受ける被験者も欧米に比べて集まりにくいことが多いとされます。臨床試験についての告知不足、情報不足がその背景にあります。また結果の審査にも時間がかかり、これらが相まって承認の遅れにつながっていました。
こうした問題意識の高まりから、世界的に足並みを揃えた国際共同治験への参加、治験コーディネーターという専門職の育成、審査にかかる人員の増強といった対策が打たれました。また、がん関連の新薬など重要なものには、優先審査が行われるようにもなっています。
参考:Q39. 「ドラッグ・ラグ」とはなんですか。国と製薬産業は、どのような取り組みをおこなっていますか。|日本製薬工業協会
これらの努力の結果、2010年ごろには海外より新薬の発売が平均4.7年も遅れていたものが、現在では大幅に短縮され、欧米と同時承認も珍しくなくなっています。この意味でのドラッグ・ラグは、いったん解消した状態にありました。
新たなラグとロス
しかし近年、また新たな形でのドラッグ・ラグが始まりました。いわゆるバイオ医薬や希少疾患用医薬を中心に、日本での治験開始が遅れる――どころか、最初から日本での開発が計画に入っていないケースが増えているのです。
かつてのドラッグ・ラグは数年待てば新薬が手に入りましたが、今回はそもそも日本で新薬が利用できないことになりますから、問題はより深刻です。この、新薬が入ってこない状態を「ドラッグ・ロス」と呼んでいるわけです。
たとえば、2016年からの5年間に欧米で承認された243点の新薬のうち、176点は2025年時点でも日本に入ってきていないといいます。こうした薬はがん領域などで多く、となると本来救える命さえ救えないケースが出てきます。
参考:日本は深刻な「ドラッグロス」アメリカ開発<新薬の約70%>が国内で使えない事情――広がる欧米との医療格差【耳鼻咽喉科医が解説】|ゴールドオンライン
ドラッグ・ロスの原因
治験の体制などが整えられたのに、なぜまたドラッグ・ロスという事態が発生したのでしょうか。ひとつには、やはり薬価の問題です。日本では2016年以降、薬価制度の改革が行われ、オプジーボのような高額薬の薬価が大きく引き下げられました。
また2021年からは、それまで2年に一度であった薬価改定が毎年行われるようになり、多くの医薬の価格が頻繁に切り下げられています。こうした改革により、日本全体の薬剤費の上昇は抑制されていますが、これは製薬企業から見れば、日本の医薬品市場に魅力がなくなっているということでもあります。
このため、海外の製薬会社はもちろん、国内企業でさえ米国などの市場を優先して開発に入るケースが増えています。たとえば武田薬品などは、ボストンにグローバル開発拠点を構えて、売上の半分以上を米国で稼ぎ出しており、日本での売上は全体の9.1%に過ぎません。
参考:武田薬品、急ピッチで進む「米国シフト」の実相 ボストンに集中投資|日本経済新聞
また海外においては、新薬開発の担い手が小規模なバイオベンチャーに移行しています。どこまでをベンチャーに含めるかにもよりますが、近年の新薬の約半分ほどはベンチャー企業が創り出した、あるいは基礎的な部分を担ったものといわれます。
こうしたバイオベンチャーは、日本で開発を行うためのインフラなどを持っておらず、当然日本では臨床試験を行いません。今後の伸びが見込みにくい日本市場に、わざわざ新たな拠点を築くのは難しいでしょう。
対策はあるか
こうした状況の解消に向け、いくつか対策が始まっています。厚労省研究班は、日本に入ってこない医薬品をリストアップし、緊急性の高さに応じてランク付けをしました。このうち最高ランクに位置づけられた14品目につき、開発企業を募集、あるいは開発の要望を行うことにしています。
参考:ドラッグ・ロス解消に向けた取組について|厚生労働省
また、これまでは国際共同治験参加前に、日本人に対する事前の治験を求めていましたが、これを原則不要とする通知も出されました。これにより、国際共同治験への参加がしやすくなります。
参考:[創薬]創薬日本人への追加の事前試験、原則不要に~ドラックラグ・ドラッグロス 解消への第一歩~|自由民主党
しかし根本的には、製薬企業にとって魅力的な薬価システムの構築こそが必須となるでしょう。医療費抑制という大義とぶつかり合ってしまいますが、患者の生命を守るためには必須の事柄であり、今後厚労省としては難しい舵取りを強いられることになりそうです。







