学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。
毒にも薬にもなる? ニコチンの歴史
やめたいけど、やめられない…。今回はタバコに含まれる「ニコチン」についてサイエンスライター・佐藤健太郎氏が考察します。有毒でありながらも、消毒、止血、座薬や歯磨きetc.と、医薬品として重宝されていたニコチンの歴史を紐解いてみましょう。
“ニコチン”名前の由来とは?
21世紀に入り、大きく変わったと思うことのひとつは、街を歩いていて煙たいと思うことがなくなったことでしょうか。筆者の学生時代くらいまでは、飲食店でも駅のホームでも、みながタバコをふかしているのが当たり前でした。
しかし、2000年に厚生省(当時)が発表した「健康日本21」、2002年に制定された健康増進法、2007年発表の「がん対策推進基本計画」などによって、喫煙防止・禁煙支援・分煙化などが推し進められるようになり、公共の場からタバコは追放されていきました。これにより、受動喫煙の害が低減されたこと、火災件数が減少したことなどは、大いに歓迎すべき変化でしょう。
タバコは多くの有毒化合物を含みますが、ニコチンはその最大のものです。急性毒性も高く、子供の誤飲事故が絶えません。
一方で、ニコチンは医薬としても用いられます。といっても、ニコチンパッチで皮膚から吸収させるなどして、ニコチン依存症の治療に使われるのですが。
中毒の原因でもあり治療薬でもあるという、マッチポンプのような医薬は他に類を見ません。
歴史を見ると、当初からニコチンは医薬として使用されていました。コロンブスの艦隊がタバコを新大陸から持ち帰ると、ヨーロッパ人たちはこの珍奇な植物を大いにもてはやします。
セビリアの医師モナルデスはタバコを万能薬とうたい、消毒・止血・座薬、さらに歯磨きにまで用いることを勧めたといいます。
フランスの駐ポルトガル大使ジャン・ニコは本国にタバコを持ち帰り、王妃カトリーヌ・ド・メディシスの頭痛を治療してみせます。このため、タバコは「ニコの薬」と呼ばれ、珍重されました。
タバコの学名Nicotiana Tabacumの名称、さらにニコチンという化合物名は、このニコの名からとられています。まさか500年後まで、自分の名が最も嫌われる化合物として残るとは、ニコも夢にも思わなかったことでしょう。
その後、タバコは嗜好品として定着し、世界に広がります。タバコの害が大きいことは早くからわかっており、嫌煙運動も行なわれていました。
クロムウェル、ルイ14世、徳川家光、ヒトラーといった歴史に名を残す権力者たちもタバコの根絶を図っていますが、喫煙者の反発は極めて強く、いまだタバコの完全な追放に成功した国はありません。
ニコチンの構造
なぜニコチン摂取をやめられないのか?
ニコチンの摂取をやめるのは、なぜかくも難しいのでしょうか?
ニコチンは、6員環と5員環がひとつずつ結びついただけの、ごくシンプルな構造です。この化合物は、本来アセチルコリンが結合するはずの受容体に結びつき、ドーパミンの放出を促します。これが脳に快感をもたらすため、人は喫煙をしたがるのです。
しかも、ニコチン摂取を繰り返すうち、ドーパミンの受容体数は減少し、快感を感じにくくなります。すると人は快感を求めて、さらに多くのタバコを吸うようになります。これが、タバコの依存性の原因です。何とも始末の悪い化合物という他ありません。
かつては農薬として利用されていた
植物はなぜわざわざ手間ひまをかけてニコチンを作るのでしょうか?
もちろん、人間を中毒にさせるために、わざわざこんなものを作っているわけはありません。ニコチンは、タバコが害虫を追い払うために合成する、一種の天然農薬だと考えられています。実際、タバコの吸い殻を浸した水を植物にスプレーしてやると、アブラムシなどの害虫をきれいに駆除することができます。
ただしニコチンは人畜への害も大きいので、農薬としては不適切です。そこで、ニコチンの構造を一部変換し、昆虫のみに毒性を示す農薬が作り出されました。これがネオニコチノイドと呼ばれるものです。
しかし近年、このネオニコチノイドは、ミツバチが一夜にして大量失踪する「蜂群崩壊症候群」(CCD)の原因のひとつではないかとされ、使用に規制がかかるようになりました。CCDの全容はまだ解明されてはいませんが、自然と人工化合物の関係の難しさを示す一例といえます
一方で、強力な生理作用を持つニコチンは、優れた医薬の源泉にもなりえます。
たとえば、南米の森林に棲むヤドクガエルは、エピバチジンという強力な毒を作っています。この毒はニコチンが結びつく受容体に作用し、神経を麻痺させる力を持ちます。
エピバチジン。ニコチンに類似した骨格を持つ。
これをうまく用いれば、痛覚を麻痺させて強力な痛み止めともなりえます。その作用はモルヒネなどよりはるかに強力で、しかも依存性がないこともわかっています。研究が進んで毒性を低減させることができれば、鎮痛剤として極めて有望です。
その他、ニコチン受容体に作用する化合物には、筋弛緩剤などとして用いられているものもあります。嫌われ者の物質も、研究と応用次第で様々な用途が拓ける、よい一例といえそうです。