学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。
リオデジャネイロオリンピックが閉幕しました。日本選手の活躍は素晴らしく、テレビの前で夢中になって応援した方も多かったのではと思います。
ただし今回のオリンピックでも、スポーツ界の影の部分といえる、ドーピングの問題が目についたのは事実です。たとえば、ロシアがドーピングや隠蔽工作を国家ぐるみで行なっていたことが発覚し、多くの選手が出場できなくなったことは、世界に衝撃を与えました。他にも、陸上や競泳など多くのジャンルの選手に薬物違反が発覚し、失格やメダル取り消しなどの処分を受けています。
オリンピックとドーピングの関係は、古くから始まっています。といっても当初は、現代のように厳しくドーピングが規制されていたわけではありません。たとえば1904年、セントルイスオリンピックの男子マラソンに出場したトーマス・ヒックスは、レース中に暑さで倒れかけたため、トレーナーが劇薬であるストリキニーネを2度にわたって注射し、ブランデーをグラス一杯飲ませて走らせたといいます。
今であればまったく考えられない行為ですが、当時ストリキニーネはマラソンに必須の興奮剤とされており、違反とはなりませんでした。これによりヒックスは優勝の栄冠を手にしたものの、ゴール直後に倒れて半死半生の状態となり、翌日にはマラソン引退を発表しています。このような事件が重なったため、選手の健康や公平性の問題がクローズアップされてゆき、今では多くの薬物が使用禁止になっています。
ドーピングに用いられる薬物として、真っ先に思い浮かぶのは筋肉増強剤であると思います。男性ホルモンであるテストステロンには、タンパク質の合成を促進するはたらきがあり、筋肉が強化されるのです。テストステロンそのものは肝臓で代謝を受けやすいため、体内で安定な誘導体や、代謝を受けてテストステロンに変化する薬剤が多数開発されています。
1988年、ソウルオリンピックの男子100メートル走で、当時の世界新記録を叩き出して優勝したベン・ジョンソンが、金メダルを剥奪されるという衝撃的な事件がありました。彼が用いていたのも、こうしたステロイド誘導体のひとつであるスタノゾロールでした。今回のリオオリンピックでも、重量挙げの選手からステロイド系薬物が検出され、大会追放処分となっています。
体内で赤血球の産生を促進するエリスロポエチンも、近年使用が増えている薬剤です。これはもともと体内物質で、腎不全性貧血の治療に用いられます。しかし、エリスロポエチンを健康体の人に投与すると、筋肉への酸素供給量が増加するため、持久力が向上するのです。
癌を乗り越えてツール・ド・フランスを7連覇するなど、自転車競技界の英雄であったランス・アームストロングも、このエリスロポエチンを用いていたことが発覚し、その戦績のほとんどを剥奪されています。
また、検査をすり抜ける技術、引っかからない方法の開発も驚くべき速度で進んでいます。筋肉増強などに必要な遺伝子をDNAに組み込んでしまう「遺伝子ドーピング」というものも考えられており、その登場は時間の問題ともいわれます。
よくそんな恐ろしいことをするものだと思えますが、ある調査によれば、「もしオリンピックで必ず金メダルを獲れる薬があったら、5年後に死ぬとわかっていても使うか」という質問に対し、アスリートの52%が「イエス」と答えているそうです。こうした心理がある限り、やはりドーピングの撲滅は難しいと思えます。
一方で、違反行為などする気のないアスリートも、ドーピング検査に引っかかる可能性が出てきています。重要な医薬のいくつかが、禁止薬物のリストに入っているためです。たとえばβ遮断薬は、手の震えが止まるなどの作用があり、射撃などの競技で使用が禁止されています。糖尿病の治療薬として不可欠なインスリンやGLP-1受容体作動薬も、筋肉増強を助ける作用があるとして、禁止薬物となっています(ただし、持病の治療のためにこれらの薬剤が不可欠なアスリートは、あらかじめ申請すれば利用が可能になる制度もあります)。
その他、市販の風邪薬に入っているメチルエフェドリンなども禁止物質です。また、栄養補給のために飲んだ市販のサプリメントに、実はステロイド剤が入っていたというケースもありました。こうした「うっかりドーピング」は近年増加しており、アスリートにとって悩ましい問題となっています。
ドーピングの問題は、トップアスリートだけの話ではなく、アマチュアや学生などにも関わってくることです。こうした状況に対し、医薬の専門家である薬剤師が貢献できる部分は大いにあるのではないでしょうか。