学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。
かつて人気番組「トリビアの泉」で、「医師免許があれば麻酔科以外はどの科でも勝手に名乗れる」という話題が取り上げられたことがありました。これは筆者もちょっと驚きましたが、「医師とはどの分野においても、最低限の医療行為ができなければならないという理念に基いているため」なのだそうです。
ではなぜ、麻酔科だけが別なのか? 実は「麻酔科標榜医」になるためには、医師免許取得後に専門の麻酔科医のもとで2年間臨床経験を積んだ上、厚生労働省の認定を受ける必要があります。さらに認定医・専門医・指導医といった上位のポジションに進むためには、一定期間の研修・臨床経験を積んだ上、日本麻酔学会の認証を受けねばなりません。
なぜ麻酔科医のみがこうした特別扱いになっているかといえば、麻酔が他の医療技術とは異なる背景を持った特殊技術だからです。麻酔は、単なる睡眠や酩酊とはまったく異なり、意識を人工的かつ可逆的に失わせるものであり、その間は呼吸・循環・代謝なども抑制されます。麻酔科医は、単に麻酔薬を吸入させたり注射したりだけではなく、手術中の患者の生命維持を一手に引き受けます。いわば、患者を死の淵に近づけつつ、手術による痛みなどを感じさせぬようギリギリに生命活動を保たせる、綱渡りを行う仕事といえます。
麻酔に用いる麻酔薬も、他の医薬とはまったくの別物であり、薬剤師の方でも目にしたことのない人が多いのではないでしょうか。創薬研究者にとってもこれは同様で、筆者は麻酔薬自体を見たこともありませんし、麻酔薬の研究開発をしているという人も知りません。
実のところ、新規の麻酔薬を開発しようにも、麻酔のメカニズムの全貌はまだわかっていないのが現状です。たとえば、吸入麻酔に用いられるガスの分子構造には、ほとんど共通性が見当たりません。それどころか、酸素や毒性ガスを除くあらゆる気体は、麻酔作用を持っています。窒素や二酸化炭素のような身近な気体も、高濃度では意識消失などを引き起こすことが知られています。
麻酔薬によってもいろいろと効能は異なっており、麻酔科医はこれらを使い分け、あるいは併用して患者の状態をコントロールします。つまり、麻酔薬の作用は統一的なメカニズムで、完全に説明できるものではなさそうなのです。
このような次第で、麻酔薬にはまだまだ謎の部分があまりに多いのです。その謎は分子レベルだけでなく、投与された患者の感覚にも及びます。たとえば吸入麻酔薬では、患者の意識は完全に消失し、あたかも手術前から手術後に一瞬でタイムスリップしたかのような感じを与えます。これに対し、静脈に点滴で投与するプロポフォールなどでは、患者は熟睡後の爽やかな目覚めのように感じるといいます。このため、プロポフォールを何度も欲しがるようになる人もおり、かのマイケル・ジャクソンもその一人でした。彼の突然の死は、麻酔専門医でない医師による、プロポフォールの過剰投与が原因であったとされます。
もうひとつ、手術直後から3日後あたりに、「せん妄」と呼ばれる状態に陥ることがあります。患者が、自分が誰なのか、今が何月何日なのか、どこで何をしているのかわからなくなるケースも起きます。これらの症状は、しばらくすると治まるものであり、通常心配はありません。
また、現実と区別がつかないほどの幻覚を見るケースもあり、しばしば性的なイメージを伴います。こうした例は19世紀から知られていますが、プロポフォールなどが用いられるようになってから増えているようです。
最近、30代女性患者が手術を受けた直後に、執刀医にわいせつ行為を受けたと主張し、この医師が逮捕されるという一件がありました。公判においてこの医師は無罪を訴え、所属する病院も不当逮捕であるとして抗議文をウェブ上に掲載しています。
もちろん現段階で真相はわかりませんが、医療現場に身を置く多くの人たちが、これがせん妄によるものではないかと考え、冤罪の可能性を指摘しています。すでに多くの性的な幻覚の事例が報告されていることを考えれば、こうした疑義が挟まれるのはもっともなことでしょう。
麻酔薬が、こうした幻覚を引き起こすというメカニズムが解明され、科学的にゆるぎのないものになっていればまた違うのでしょうが、現段階でせん妄が起きる理由はわかっていません。薬物による幻覚症状なども、そのメカニズムの解明は手つかずのままで、脳科学の進展を待つほかはない状況です。
麻酔は、「意識」という人間存在の最も奥の深い部分に触れるものです。あるいは麻酔の研究が、意識とは何かという、最大の疑問を解くための糸口となるのかもしれません。