薬にまつわるエトセトラ 更新日:2023.03.03公開日:2019.12.10 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第62回

はしか感染の本当の恐ろしさが米科学誌サイエンスの研究で明らかに

 

国内外での流行が度々ニュースになる感染症・麻疹(はしか)。身近で比較的気軽にとらえられる感染症ですが、先日、米科学誌サイエンスの発表により、はしかウイルスの恐ろしい性質が明らかになりました。はしかとはどのような感染症なのか? その底知れぬ性質を改めて紐解きます。

 

歴史を動かした感染症

これまでの本連載で、人類の歴史をゆるがした多くの感染症のことを取り上げてきました。ペストや結核、インフルエンザなどは中でも有名なものですが、麻疹(別名・はしか)もその列に加わるべき疾患といえるでしょう。

はしかはウイルス性の感染症であり、39度以上の高熱と、全身の赤い発疹が特徴です。古くから知られていた感染症で、日本でも平安時代から「赤もがさ」の名で記録されています。たとえば藤原道長の娘・嬉子も、妊娠中に「赤もがさ」に感染して、皇子(後の後冷泉天皇)を出産した2日後、18歳で早逝しました。

江戸時代にもたびたび大流行し、多くの人々の命を奪っています。「生類憐れみの令」で有名な第5代将軍・徳川綱吉もその一人で、64歳の時にはしかに感染、回復しかけた頃に吐瀉物を喉に詰まらせ、窒息で世を去っています。

1862年の流行では、江戸だけで3ヶ月のうちに1万4千人以上の死者が出たと記録にあります。同時期に流行したコレラと共に、ただでさえ幕末の混乱期にあった江戸の世情を、大きく揺るがした疾患でした。

江戸時代には「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」(天然痘はあばたが残るので子供の容貌を左右し、はしかは子供の寿命を左右する)という言葉があったほどで、死亡率の高い危険な感染症とされてきました。しかし明治以降、栄養状態の改善などで、はしかによる死亡率は徐々に下がってゆきます。

 

ただの通過儀礼?

昭和以降では、はしかは誰もが一度はかかる流行病という、比較的気楽なたとえに使われるようになりました。筆者が昔読んだ小説にも、主人公が学生運動に熱中した過去を振り返って、「まあはしかのようなものさ」とつぶやくシーンがあったと記憶しています。

はしかが「誰もが一度はかかる流行病」であった時代は平成初期まで続きますが、21世紀に入って予防接種が徹底されるようになり、感染者数は激減します。アメリカでもいったん根絶宣言がなされるなど、さしものはしかも過去の病気になったかと一時期は思われていました。

しかしはしかは、そう簡単に消えてなくなってくれる病気ではありませんでした。この病気の恐ろしさはその感染力の高さにあり、あらゆる感染症の中でも最強とまでいわれます。空気感染、飛沫感染、接触感染などあらゆる経路で感染し、患者と同じ空間にいるだけで危険とされます。また不顕性感染(感染しても症状が出ないこと)はほとんどなく、免疫がない限りほぼ全ての人が発症します。

こうした性質のため、いったんはしかを根絶したかに見えた国にも、海外旅行者などを通じて再侵入し、流行を引き起こすことが何度も起きています。日本でも2007年から2008年にかけて流行し、1万人以上の患者が発生しました。2016年には海外旅行帰りの男性が、はしかを発症した状態で人気アーティストのコンサートに行っていたことが判明し、参加者がパニックになるような事態も起きています。

こうした騒動は、はしかが当たり前であった世代の人たちには、「何もはしか程度で大騒ぎしなくても」といった印象を与えたようです。しかしはしかは、肺炎や脳炎など危険な合併症を発するケースもあり、現在でも0.1%前後の患者が死に至ります。決して「誰もが一度はかかる通過儀礼」と軽く捉えてよい病気ではありません。

 

免疫の破壊者

そして最近、はしかのさらに恐るべき性質が明らかになりました。人体の免疫系は、これまでかかった病気を記憶し、必要な時に抗体を作る能力を備えています。しかしはしかのウイルスは、この免疫の記憶を消し去ってしまうことがわかったのです。

サイエンス誌に掲載された論文によれば、はしかから回復した子供を調べたところ、他の細菌やウイルスに対する抗体の11~73%が消去されていたということです。これだけ大きな個人差があった原因は、まだよくわかっていません。

この作用は、免疫の長期記憶を担う形質細胞を、はしかのウイルスが破壊してしまうためと考えられています。中には新生児並みに免疫力が低下した子供もいたとのことで、はしかは我々が思っていたよりも、はるかに有害で危険な病気であったということになります。

ただ救いとなるのは、ワクチンを接種しておくという、単純かつ広く行われている手法によって、この害を防ぐことができるという点です。はしかの予防接種ひとつで、他の何倍もの病気を防げる可能性があるわけですから、その重要性はますます高まったといえるでしょう。

ただし近年、先進国でははしかの脅威が忘れ去られかけていたこと、反ワクチン運動の台頭により、ワクチン未接種の子供も増えているということです。はしかによる免疫破壊という恐ろしい情報は、もっと広く周知されるべきことではないかと思われます。

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佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。