薬にまつわるエトセトラ 公開日:2024.09.05 薬にまつわるエトセトラ

薬剤師のエナジーチャージ薬読サイエンスライター佐藤健太郎の薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第119回

日本版『ブレイキング・バッド』?覚醒剤密造事件から考える専門家の責務とは

 

日本で起こった覚醒剤密造事件

本欄の読者のみなさんには、米国のドラマ『ブレイキング・バッド』をご覧になったことがある方も多いのではと思います。2008年から放映され、シーズン5まで制作されて多くの賞を受けるなど、非常に評価の高い作品です。
 
天才化学者でありながら人生に失敗し、心ならずも高校の教師を務めている男ウォルター・ホワイトが本作品の主役です。ある日、肺がんで余命2年と診断されてしまった彼は、医療費と家族の生活費を稼ぐため、覚醒剤の密造販売に手を染める――というところから、物語は始まります。
 
実は最近、ちょっとこのドラマを思わせるような事件が、国内で起こりました。愛媛県の山中にある一軒家で、台湾から来た男が覚醒剤を製造していたというものです。
 
参照:山あいの一軒家で覚醒剤密造~日本に忍び寄る闇 | NHK
 
犯人は、裏社会の人物によって日本に送られ、人目につかない山奥の家で覚醒剤を製造することを強要されていました。台湾からの指示に従い、製法はネットで調べていたといいます。

※画像はイメージです。

気になる製法ですが、20万錠のアレルギー性鼻炎の処方薬から、微量に含まれている成分を抽出し、覚醒剤を精製していたということです。
 
犯罪の助長にもなりかねませんので詳細には触れませんが、鼻炎の薬には覚醒剤に類似した構造の物質が含まれるものがあり、こうしたことも不可能ではないのかもしれません。ただし、とてつもない手間ひまがかかりそうではあります。
 
台湾では、覚醒剤の密造技術が闇社会で継承されており、その技術を持つ者を「毒師傅(どくしふ)」と呼ぶそうです。なんだか映画か劇画の世界のようですが、裏社会にとって覚醒剤はそれほどに美味しいビジネスなのでしょう。
 
なぜわざわざ日本に人間を送り込み、山奥で製造に当たらせたのか――。どうやら日本は、覚醒剤が高価で売りさばけるマーケットとして、裏社会から狙われているようです。ただし、空港などでの水際検査が厳しいため持ち込みは難しく、ならば国内で製造させてしまえということになったのでしょう。

 

「自分ならもっとうまくやれる」

さて、『ブレイキング・バッド』の主人公ウォルターが覚醒剤密造に手を出すきっかけになったのは、実際に麻薬製造現場を見たことでした。粗悪な状況で作られる麻薬を見た彼は、自分ならもっとうまくやれると考えたのです。実際に、彼は化学の知識を駆使して最高品質の覚醒剤を生み出し、裏社会に君臨することになります。
 
愛媛県の事件の場合、覚醒剤を作っていた男は化学の専門知識を持たない人物で、用いていた道具もミキサーやおたまなど、身近にある調理器具であったといいます。もし有機合成化学者がこの事件について知ったならば、ウォルターと同じようなことを思う者がいるかもしれません。自分ならもっとうまくやれる――と。

実のところ、そこそこの実験設備と必要な試薬さえあれば、各種麻薬の合成は難しいことではありません。天才化学者ウォルター・ホワイトならずとも、有機合成の研究室で修士課程修了程度の経験があれば、そこらで流通している麻薬類よりはるかに高品質なものを作り出して見せることでしょう。
 
もちろん大多数の化学者は高度な倫理観を持っており、技術的に可能と知っていても手を出す者はまずいません。薬学や生化学の知識を身につけるほど、麻薬の危険が身にしみてわかるからでしょう。
 
ただし海外では、実際に合成化学者が麻薬密造に関わった事件が発生しています。中国では、ドラッグの製造法を有償で提供したとして、西安の大学で教授を務めていた人物が逮捕されたケースがあります。
 
参照:リアル「ブレイキング・バッド」!薬物製造元教授を逮捕 中国 | Chem-Station(ケムステ)
 
また、米国やヨーロッパで発見された麻薬合成工場でも、光学分割など高度な合成技術を用いて麻薬を製造しているケースが見つかっています。その手法も日々進歩しているようであり、プロの化学者の関与は明らかです。
 
参照:Not-Such-Better-Living Through Chemistry | Science
 
幸いにして国内では、合成化学の専門家が関わった事件はほとんど聞いたことがありません。ただし、1995年に発生したオウム真理教事件では、有機化学の修士号を持つ信者を中心としたチームが、サリンやVXなどの毒ガスを製造しています。
 
またオウム真理教では、宗教儀式用に覚醒剤やLSDなども合成していたと見られています。先に、大多数の化学者は高度な倫理観を持つと書きましたが、宗教が絡んでくると話は別でしょう。
 
今後もこうした事件が起きる可能性は否定できず、製造や販売を止めさせるようなことは、一市民にはとうていできることではありません。ただし、麻薬類の危険性について情報を発信し、手を出す人が一人でも少なくなるよう、働きかけることは可能でしょう。
 
医薬品だけでなく、こうした危険なドラッグ類について啓発を行うこともまた、生理学や有機化学、医学などの専門知識を身につけた者としての、重要な責務ではないかと思う次第です。

 

 
 


佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

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