薬剤師が知っておくと役に立つ睡眠の真実(前編)
緊張感のある現場で多忙な毎日を過ごす薬剤師の中には、睡眠に関する悩みを抱えている人も少なくないでしょう。睡眠の課題に向き合い、改善するにはどうすれば良いのでしょうか。そこで今回、世界最高峰の睡眠研究機関と呼ばれるスタンフォード大学睡眠研究所で長年研究を続けてきた西野精治先生(同大学医学部精神科教授)にインタビュー。睡眠改善のヒントを前編・後編の2回に分けてお届けします。
1. 睡眠負債とは?
薬剤師の皆さんなら、「睡眠負債」という言葉を耳にしたことがあるかもしれません。「負債」とは、慢性的な睡眠不足によって心身への悪影響が蓄積されていくといったネガティブなイメージをはらんでいますね。
「正式な医学用語ではありませんが、『マイナスの要因が積み重なっていき、いつか深刻な事態を引き起こす』というニュアンスを含んだ、おもしろい表現ですよね。残念ながら、私たち日本人の睡眠時間は年々短くなっており、睡眠負債を抱えている人は極めて多いと考えられています」(西野先生、以下同)
毎日忙しいのだから多少の睡眠不足は仕方がない――。そう思っている人も多いでしょうが、睡眠負債を甘く見てはなりません。
「アメリカの学会誌『Sleep』で発表された研究では、『タブレット画面に図形が出現したらボタンを押す』という単純作業に医師20人が取り組んだところ、夜勤のない科の医師は正確に図形に反応できた一方、夜勤明けの医師は明らかに反応が低下したと報告されています。夜勤明けの内科医は図形が90回出現したうち、数秒間反応できなかったことが3~4回もあったということです。つまり、このときは無意識のうちに脳が眠っていたわけですね」
睡眠負債を抱えている本人も意識しないうちに、業務時間中に脳が眠りに陥ってしまうという事態を引き起こしかねません。例えば、調剤の際に意識が遠のいたり、ピッキングのときに集中力を欠いたりしたらどうなるでしょう。薬剤師としてのスキルとは無関係のところで、取り返しのつかない医療事故につながるかもしれません。
「睡眠不足による心身へのダメージは思った以上に大きいです。例えば、睡眠の働きの一つに、脳が脳脊髄液を介して老廃物を排出する『グリンパティック・システム』があります。アミロイドβなどの老廃物が処理しきれずに蓄積していくことで、アルツハイマー型認知症などのリスクが高まると考えられています」
眠っている間にはホルモンバランスの調整も行われています。そのため、睡眠時間が短くなればホルモンバランスが崩れやすくなり、食欲を抑えることが難しくなるなどの影響が出てきます。西野先生によれば、特に女性は影響を受けやすく、睡眠時間が短い人ほど太りやすい傾向にあるそうです。
2. 睡眠不足は「寝だめ」で解消できない
「睡眠」は1953年にレム睡眠が発見されて以来、ようやく研究が本格化した新しい分野。まだまだ謎の多い領域です。適正な睡眠時間や睡眠不足の程度についても正確な測定は難しいのが現状ですが、自身の心身に睡眠負債がたまっているかどうか、大まかに判断する目安はあるそうです。
「仕事がない休日などに、目覚ましをかけずに自然に目が覚めるまでどのくらいの時間寝ているか確認してみてください。普段より2時間以上睡眠時間が長いようであれば危険信号。日ごろの睡眠時間がまったく足りておらず、かなりの睡眠負債がたまっていると考えられます」
加えて、目覚めの良さも重要だといいます。
「人が眠っている間、深い眠りであるノンレム睡眠(脳も身体も眠っている)と、浅い眠りであるレム睡眠(脳は起きているが身体は眠っている)が交互に繰り返されることは知っていますね。健康な状態であれば、明け方になるにつれてレム睡眠が長くなってきて、自然と目覚められるはずなのです。ところが、睡眠のパターンが崩れているとノンレム睡眠の状態から無理に起きなければならず、とても不快な目覚めになります」
平日の睡眠不足を週末に寝だめをして取り戻す、というのは多くの人にとって身に覚えがあることでしょう。ところが“寝だめ”をしたところで、たまってしまった睡眠負債を“返済”することは簡単ではないのだそう。
「1日あたり40分の睡眠負債を長期間抱えていた人に、寝たいだけ寝てもらったという実験があるのですが、睡眠不足が完全に解消するまでに3週間もかかったそうです。1~2日程度の休日に少しくらい多く寝たからといって、睡眠負債を“完済”するのは不可能だといえるでしょう」
中には極端に短い睡眠時間でも元気でいられるショートスリーパーも存在しますが、普通の人がそれをめざそうとするのは危険だと西野先生は指摘します。
「ショートスリーパーは、短眠の遺伝子を持った非常にまれな存在であり、トレーニングで睡眠時間を短くすることはできません。ショートスリーパーを自認していても、実は無理をしているだけというケースもあるため注意が必要です」
3. 睡眠時間を増やせないなら質を向上させる
それでは、睡眠負債を“返済”するためには、何から始めたらよいのでしょうか。
「とにかく眠るしかありません。十分な睡眠時間は人それぞれ違いますが、基本的には最低でも1日6時間以上、できれば7時間程度は欲しいところです。それに満たない人は、30分でも長く眠るようにしてみてください。しばらくその生活を続け、どれほど体調が良くなるか身をもって知ってほしいですね」
睡眠習慣は悪化しているときには自覚できる症状が出にくいものの、改善すると良い影響を自覚しやすいという特徴があるそうです。そのため、少し長めに寝るだけでも、日中のパフォーマンス向上が実感できるはずです。しかし、残業やシフト制の影響などで、どうしても睡眠時間を延ばすことが難しい場合はどうしたらよいのでしょうか。
「睡眠時間が限られているのであれば、睡眠の質を向上させるしかありません。そのためには、『眠りのゴールデンタイム』といわれる寝始めの90分間を大切にしてください」
人が眠りに入ると、まずはノンレム睡眠が訪れます。眠りの質を決定付けるカギとなるのが、この最初のノンレム睡眠だといいます。
「ここで得られる眠りは、一晩のうちで最も深いもの。このときに睡眠圧(眠りたいという欲求)を放出し、安全安楽な環境に身を置くことで、理想的な睡眠パターンを実現することができます」
西野先生によると、一晩のうちにノンレム睡眠とレム睡眠のサイクルを4回ほど繰り返すことが一般的で、2回目以降のノンレム睡眠が1回目よりも深くなることはないそうです。つまり、最初の90分間が崩れてしまえば、その後の睡眠にも悪影響を及ぼし続けるということです。そうなれば、どれだけ長く寝たとしても眠りの質は向上せず、目覚めもよくありません。
4.「寝始めの90分間」が睡眠のゴールデンタイム
「眠りのゴールデンタイム」を大切にすることには、ぐっすり眠れること以上の大きなメリットがあります。
「人間の成長に大きく関わるグロースホルモンは、ノンレム睡眠の質に応じて分泌量が増減する特殊なタイプのホルモンです。中でも最初のノンレム睡眠時には、全体量の70~80%が分泌されることが知られています」
細胞の成長や新陳代謝に関わることから、子どもだけでなく成人にとっても重要なグロースホルモン。「寝始めの90分間」で深いノンレム睡眠ができれば、全体の睡眠時間が短かったとしても、全体量の80%近いグロースホルモンを確保することができます。
「自律神経を整えるためにも、ゴールデンタイムの90分間はとても重要です。本来であれば、毎日同じ時刻に寝起きすること、特に就寝時刻を決めて、ゴールデンタイムを確保するのが理想ですが、やむなく細切れ睡眠をする場合でも、最初に深い眠りが訪れることを意識してください」
西野先生によれば、寝始めの90分の間に起きるにはかなりの刺激が必要になるそうです。逆に言えば、それだけ深い眠りについている人を強引に目覚めさせたり、大きな刺激(寝ている人がいる部屋のドアを強く開け閉めするなど)で眠りを邪魔したりすることは避けなければなりません。自身の睡眠を大切にすることはもちろん、他者の睡眠に対しても配慮が必要です。
次回、西野精治先生へのインタビュー後編では、質の高い睡眠を得るための具体的な方法を紹介します。
撮影/和知 明
西野精治(にしの・せいじ)