学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。
コロナの飲み薬に配合されている「リトナビル」ってどんな薬?
前回、新型コロナの経口薬パクスロビドに、HIVプロテアーゼ阻害剤リトナビルが加えられているという話を書きました。今回は少しこの薬にまつわる話を取り上げてみましょう。
リトナビルは、当時世界的な問題になっていたエイズの治療薬として、1996年にアボット社から発売された薬です。そのアプローチは、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)が増殖する際に働くプロテアーゼを阻害するというものです。
HIVは、増殖の際に必要な数種のタンパク質を、一本の長くつながったアミノ酸鎖として合成します。この「ポリタンパク質」が切断され、ウイルスの増殖に必要なタンパク質になる際に働くのがHIVプロテアーゼです(ちなみに、新型コロナウイルスSARS-CoV-2も、これと同様のメカニズムで増殖します)。
このHIVプロテアーゼを阻害すれば、ウイルスは必要なタンパク質を作れなくなり、増殖は阻まれます。ということで、いかに阻害剤をデザインできるかがポイントとなりました。そこで、当時最新鋭の技術であった、コンピュータによるドラッグデザインが動員されています(BEYOND DIXCOVERYより)。
X線結晶解析という方法でHIVプロテアーゼの詳細な構造を割り出し、そこにコンピュータ上で分子を当てはめ、最適な構造をデザインするというものです。このころ、コンピュータの性能の向上により、タンパク質の構造データを処理できるようになって、こうした手法が可能になりました。
こうして得られたリトナビルの構造は、やはりペプチドに似ています。ただし、通常アミド結合であるべきところが、切断されにくい炭素-炭素結合になっています。言ってみれば、木材を切断する機械に、木材に似た形の鉄材を放り込んで、機械をストップさせてしまうようなイメージです。
こうしてリトナビルは、7番目の抗HIV薬として発売されました。そうした中で、いくつかの薬剤を組み合わせて同時に投与することで、劇的に治療効果が上がることが発見されました。これはHAART療法と呼ばれてエイズの標準的治療法となり、リトナビルもその一つとして組み込まれます。
HIVは変異が頻繁に起きるウイルスなので、薬剤耐性を獲得しやすい性質があります。HAART療法はこれを防ぐためにも有効で、これによりエイズによる死者は減少に向かうことになりました。
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リトナビルブーストの発見
しかしその後、意外なことがわかってきました。HAART療法におけるリトナビルの主な効果は、HIVプロテアーゼの阻害ではないようなのです。実はリトナビルには、医薬品を代謝する酵素を阻害し、他の医薬を分解から守る効果があったのでした。
医薬品を代謝する主な酵素として、肝臓のシトクロームP450 3A4(CYP3A4)があります。リトナビルはこれに結合し、その働きを阻害します。また、腸内の消化酵素はアミド結合を切断する能力があります。一部のプロテアーゼ阻害剤はアミド結合を含むので、これが消化酵素で切断されてしまいます。リトナビルはこちらの消化酵素も阻害し、他の医薬を分解から守っていたのです。
他のプロテアーゼ阻害剤を代謝分解から守るリトナビルの効果は、リトナビルブーストと呼ばれるようになり、他の抗ウイルス薬にも適用されるようになりました。たとえばC型肝炎治療薬ヴィキラックスにもリトナビルが配合されており、他の薬剤の血中濃度を高く保つ役目を演じています。
そして今回、新型コロナ治療薬パクスロビドにも、この手法が適用されたわけです。まあ脇役に回されたリトナビル本人(?)としては、少々不本意な使われ方かもしれませんが……。
結晶多形の悪夢
リトナビルは、予想外の事故のために、一度市場から撤退するはめになったことがあります。その原因となったのは、結晶多形と呼ばれる現象です。
結晶多形という言葉は、薬剤師のみなさんならご存知のことと思います。分子が一定のパターンで規則正しく積み重なったものが結晶ですが、そのパターンは一通りとは限りません。複雑な形をした医薬分子では、複数のパターンが存在することが普通です。
厄介なのは、結晶内での詰まり方(結晶形)が違うと、薬物の溶解度や体内動態が変わってしまうことです。そして、いったん安定な結晶形ができると、そちらばかりができるようになってしまうことが起こります。
中身がどんなに効く薬剤でも、溶けなくなってしまえば砂を飲んでいるのと同じです。臨床試験途中で異なる結晶形が発生し、泣く泣く撤退したようなケースもあります。
リトナビルの場合、発売後に新たな結晶形ができてしまいました。結局一度市場に出たものも回収し、製造工程を改めて全て見直すことで、元の結晶形を創り出すことに成功したとのことです。関係者のこうした努力がなければ、今回のパクスロビドも世に出ることはなかったかもしれません。
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