薬にまつわるエトセトラ 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第73回

ノーベル化学賞の「クリスパー・キャス9」は何がすごいのか?

2020年のノーベル化学賞受賞で注目される「CRISPR-Cas9」(クリスパー・キャスナイン)。バイオテクノロジーの世界で最大の発明とも称される同技術は、従来のゲノム編集技術とどのような点で異なり、私たちの生活にどのような変化をもたらすのでしょうか。

「神の技術」の受賞

去る10月7日、2020年のノーベル化学賞が、ジェニファー・ダウドナ及びエマニュエル・シャルパンティエの両教授に授与されることが発表されました。受賞対象となったのは、CRISPR-cas9(クリスパー・キャスナイン)と呼ばれるゲノム編集技術の開発です。両氏の受賞は早くから確実視されており、今回も予想では大本命に挙げられていました。

かくもCRISPR-cas9が高く評価されているのはなぜか――それは、DNAという生命の青写真を自在に改変するこの技術が、医療・農業・生態系などの広い範囲に大きな変化を起こしうると見られているからです。

CRISPRというのは、ある種の細菌の遺伝子に見られる、特定の塩基配列が繰り返し出現する特殊なパターンのことで、1987年に石野良純博士(現・九州大学教授)らが初めて報告しました。

これは、細菌に感染するウイルスへの防御手段として存在するものです。細菌はこの配列をもとにウイルスの遺伝子を切断し、感染を防ぐのです。この仕組みを、広くゲノムの編集に応用したのがCRISPR-cas9というわけです。

DNAをカット&ペーストして、特定の遺伝子の機能を失わせたり、別の種の遺伝子を組み込んだりということは、以前から行なわれてきました。ただし従来の方法では、狙った位置に遺伝子を組み込むことが難しく、偶然に頼るしかないものでした。このため、望みの遺伝子操作を行うため、100万回も試行を繰り返すようなことさえありました。

しかしCRISPR-cas9は、この精度が段違いに高く、望みの編集を高確率で行なえます。DNA内の狙った位置で、「チミン1塩基を除去」「ACGの3塩基を挿入」といった自在な改変ができますし、数週間練習すれば高校生でもできるようになるほど実験操作も簡便です。これまで行なわれてきた遺伝子組み換えとは、別次元の技術といえます。

医薬品はどう変わるか

医療・医薬品分野にも、当然この技術は大きな影響を与えると見られます。すでに、CRISPR-cas9を用いた治療法の臨床試験が、いくつか進行中です。たとえば、以前本連載で紹介したCAR-T療法(患者の血液からT細胞を体外に取り出し、遺伝子改変を施してがん細胞への攻撃能力を高めた上で、体内に再注入する)に、CRISPR-cas9を用いた臨床試験が進んでいます。

CAR-T療法は、すでに「医薬」として承認を受けていますが、1回あたり3300万円以上という超高額な薬価がつけられたことでも話題になりました。CRISPR-cas9によってコストが下がれば、薬価も下がることが期待できそうです。

創薬の手法としても、CRISPR-cas9は活用されています。たとえば京都大学のグループは、CRISPRスクリーニングという手法により、がん治療のターゲットとなりうる遺伝子を割り出すことに成功しています。がん細胞が持つ約2万の遺伝子をCRISPR-cas9の手法で片端から破壊し、どの遺伝子ががんの増殖に必要か調べるというものです。

その他、ノックアウトマウスや疾患モデル動物の作成など、CRISPR-cas9によってできるようになること、大いに効率化できることは数多くあります。直接間接に、この技術は創薬の仕組みを大きく変えていくことでしょう。

しかし、CRISPR-cas9の適用範囲はそれだけにとどまりません。これまで医薬ではどうしようもなかった、遺伝病の予防に用いる可能性も考えられています。たとえば、ハンチントン病という遺伝病は、特定の遺伝子パターンを持った人に起こることが知られています。受精卵の段階で、この遺伝子をCRISPR-cas9によって修復すれば、その子供は発病せずに済むはずです。

他にも同様の遺伝性疾患は多く、こうした遺伝子を持った人々は子供を持つことを諦めてしまうケースが少なくありません。新技術によって発病を防げるのであれば、非常な福音となることでしょう。

巨大な影響

ただしこうした治療法がすぐに拡大し、広く使われるようになるかといえば、そう簡単ではないでしょう。CRISPR-cas9は精度の高い方法であり、さらなる改良も急速に進んではいますが、決して100%ではありません。狙った場所以外のDNAが編集を受けた場合、どのような事態が発生するか、予測は難しいと思われます。

また、精度が100%になったとしても、問題は解消しません。悪影響をもたらす遺伝子と見えたものが、実は未知の重要な役割を持っていたということもありえます。ゲノム編集による将来のリスクを完全に予測するには、現代の科学はあまりに力不足です。

特に受精卵に対するゲノム編集は、その当人だけでなく子々孫々にまで影響が及びますから、問題は複雑です。また、遺伝病の予防が成功した場合、そこからデザイナーベビー(遺伝子操作によって、望みの容貌・体力・知力などを持たせた子供)の誕生まではほんの一歩です。どんな規制をかけても、技術的に可能であれば、やってみる者は必ず現れることでしょう。

他にも、CRISPR-cas9のもたらす社会的影響は甚大であると予想されます。今回のノーベル賞は、来たるべき変化へのほんの一里塚に過ぎません。

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佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

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