学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

近視の進行を抑える目薬が日本初承認!「アトロピン」の効果とは?
日本は近視大国
本連載の第91回で、老眼の治療薬が登場したという話題を取り上げました。その記事で筆者は、「高齢化が進む日本においては、老眼治療薬はまさに手つかずの巨大市場である」と述べました。
🔽 老眼を治す目薬について解説した記事はこちら
ですが、眼科領域には老眼よりも大きな市場も存在します。言うまでもなく、近視がそれにあたります。スマートフォンをはじめとしたデジタル機器の普及もあり、日本の近視者はなお増加中です。コロナ禍により、屋外で遊ぶことが減り、スマートフォンやタブレットで遊ぶ子供が増えたことが、近視の子供増加につながったともいわれます。
2023年度に行われた文部科学省の調査によれば、小学生の37.79%、中学生の60.93%、高校生の67.80%が視力1.0未満であるということです。1986年には、この数字はそれぞれ19.1%、37.2%、53%でしたから、三十数年の間に大きく近視者が増えたことがわかります。
参照:令和5年度学校保健統計(確定値)の公表について|文部科学省
近視の多くは容易に矯正可能であり、病気などではありません。ただし、眼鏡やコンタクトレンズには、肉体的・経済的負担があるのは事実です。
また、近視が極度に進むと、白内障・緑内障・網膜剥離などのリスクが上がることも知られています。防げるなら防いだ方がよいのは当然のことでしょう。
参照:近視から派生する目の疾患を知る|Myopia Square(マイオピア スクエア)

近視はなぜ起こる?
近視は、遺伝要因と環境要因の両方によって起きるとされています。両親とも近視である子供は、両親とも近視でない親から生まれた子に比べ、約5倍の確率で近視になるという研究結果があります。
環境要因としては、近くを見る時間が長いことが関与する――と思われますが、実証されてはいないようです。
では具体的に、近視とはどういう状態なのでしょうか。多くの近視は、眼軸長(眼球の前後方向の長さ)が長くなることで起こります。こうなると、遠くから来た光線は網膜の手前で焦点を結んでしまい、しっかりピントが合わなくなります。すると、近いところのものは見えますが、遠いところのものはぼやけてしまうのです。
参照:近視について知る|Myopia Square(マイオピア スクエア)
アトロピンとは?
このほど近視の治療薬として承認を受けたのは、硫酸アトロピンの点眼薬です。アトロピンは、ナス科の植物(チョウセンアサガオ、ハシリドコロ、ベラドンナなど)に含まれるアルカロイドの一種です。
アトロピンは、ムスカリン性アセチルコリン受容体に結合し、胃腸管の運動抑制、心拍数の増大などの作用を示します。このため、静脈注射の形で徐脈性不整脈の治療に使われることがあります。
また、有機リン系の毒物の解毒剤としても用いられます。1995年に起きた地下鉄サリン事件では、硫酸アトロピンが被害者の治療に用いられました。

アトロピンの近視治療薬としての効果
このアトロピンに、近視に対する作用があることは以前から知られており、一部の眼科では自由診療の形で提供されていました。最近になって参天製薬が臨床試験を行い、2024年12月に承認を得たという流れです。対象年齢ははっきりと設けられていませんが、基本的に小児が対象となるということです。
参照:初の近視進行抑制薬・リジュセアなど新薬7製品承認へ 薬事審・第一部会が了承 | ニュース|ミクスOnline
アトロピンは、目のムスカリン性アセチルコリン受容体に結合してその活性化を抑え、これによって強膜が薄くなるのを防ぎます。強膜は眼球の形を保つ働きがありますので、これによって眼軸長の伸びを抑えると考えられています。
アトロピンは瞳孔を拡大させる作用もありますので、点眼するとまぶしさや目の痛みを感じさせる作用がありますが、低濃度であればこの副作用は防げます。このため、近視治療には0.025%程度の希薄溶液として用いられます。
参照:「低濃度アトロピン点眼薬」について|ケイシン五反田アイクリニック
治療といっても、アトロピンには視力を元に戻す力はなく、小児の近視の進行を抑制するだけです。以前に行われた臨床試験によれば、0.01%硫酸アトロピン溶液を2年間点眼することにより、近視の進行を平均約60%軽減させました。また、眼軸長の伸びも抑制されていたということです。
遠近調節作用などにも影響はなく、まぶしさなども感じさせないとのことです。また、小児期に治療を受けた子供は、成人後に悪影響は見られなかったということで、安全性はかなり高い医薬といえそうです。
進行を遅らせるだけとはいえ、安全で効果もそれなりに見込めるとなれば、今後普及する可能性はあるでしょう。あるいはこれをきっかけに、さらに効果の高い医薬の開発が進むかもしれません。

化粧品にも使われてきたアトロピン
実は、アトロピンの目に対する作用は古くから知られていました。アトロピンを含む植物ベラドンナから得られる汁液を点眼すると、瞳孔が開いて潤んだ魅力的な目になるのです。
かのクレオパトラもベラドンナを使っていたという話もありますし、ルネサンス期には化粧法の一つとして流行しました。実はベラドンナという言葉は、「美しい婦人」を意味します。
ただしベラドンナには毒性もあり、利用には危険を伴います。美を求めるのも、かつては命がけであったわけです。ひとつの化合物が、使いようで毒にも薬にも解毒剤にも化粧品にもなる、面白い例といえるでしょうか。
あわせて読みたい記事