薬にまつわるエトセトラ 更新日:2023.03.03公開日:2018.02.06 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。

第40回 「ビギナーズ・ドラッグ」に見る創薬の物語

 

最近はテレビドラマでもヒット作といえるものは少なくなりましたが、昨年放送された「陸王」は、久々に高視聴率を稼ぎ出す作品になりました。資金難やライバルとの競争などの障害を乗り越え、新しい優れたものを創り出す物語は、感動を呼ぶストーリーの王道を行くものでしょう。

これに限らず、「ものづくり」を題材とした小説や映画などは数多く作られています。また、NHKの「プロジェクトX」のようなドキュメンタリー番組でも、たびたびこうしたテーマが取り上げられました。しかし、新薬を創り出す過程――すなわち創薬を取り上げた作品には、ほとんどお目にかかることがありません。そこに内包されたドラマ、傾けられた情熱は、決して他のジャンルに劣るものではないのですが。

にもかかわらず医薬創りがドラマになりにくいのは、難解な科学知識が不可欠であるため一般にはなじみにくいこと、地道な作業が多いためにあまり絵にならないこと、製薬企業の秘密主義のベールに覆い隠され、そのプロセスが表に出ることがないことなどが、その要因であると思われます。

というわけで、創薬というものがどのように行なわれているか、一般の方には――おそらく薬剤師のみなさんにさえも――実際のところはほとんど知られてはいないと思います。しかし最近、創薬の過程を正面から題材とした小説が登場しました。「ビギナーズ・ドラッグ」(喜多喜久著、講談社)がそれです。

喜多氏は東京大学大学院薬学系研究科を卒業後に製薬企業に入社し、研究に携わりつつ小説を発表していました。「ラブ・ケミストリー」シリーズや「化学探偵Mr. キュリー」シリーズなど、化学を題材としたミステリを数多く執筆する一方、創薬をテーマに取り入れた小説もいくつか発表しています。

本作「ビギナーズ・ドラッグ」は、喜多氏が務めていた会社を退職し、専業の作家になってからのものです。それだけに、おそらくは会社にいた時には書きづらかったであろう、製薬企業での医薬創出の過程がリアルに描かれています。創薬に関する学術的な書籍は数多く出版されてきましたが、こうした形で実際の現場が描かれたことは、これまでほとんどなかったことと思います。

製薬企業勤務ではあるものの、総務課所属で医薬については素人である、水田恵輔が物語の主人公です。祖父の入居する老人ホームに務める女性・滝宮千夏に一目惚れするものの、彼女はラルフ病という希少疾患で生命の危険を抱えていました。そこで主人公は立ち上がり、彼女を救うべく新薬開発を決意するという筋書きです。

ラルフ病治療薬の開発を、正式な会社の研究テーマとして取り上げてもらうため、協力してくれる同期の研究員と共に、主人公がテーマ提案の会議に臨むところが第一の山場です。こうした研究所の仕組みや会議の様子は、ほとんど表に出ることがありませんから、創薬に興味のある人にとってはここだけでも非常に参考になることでしょう。

いくら治したい病気があろうと、きちんとした成功の見込みと、十分な市場規模がなければ製薬企業としては人材や資金を注ぎ込むことはできません。ラルフ病は希少疾患という設定なので、会議ではこの点を指摘されますが、主人公は他の疾患への応用展開を目指せること、会社としての社会貢献、ビジネスチャンスの拡大といった点を挙げて反論します。このあたりは、現代の医薬品業界の状況をよく反映していると思えます。

社内の他のグループとの人材や時間の奪い合い、一癖も二癖もある研究員の顔ぶれなど、「実際こういう感じだよなあ」と思わせる描写が数多く出てきます。このあたりはなかなか他の書籍では読むことのできない、製薬企業のリアルな内情といえそうです。

他にも多くの壁にぶち当たりつつ、主人公たちは研究を進めてゆきますが、実際の試薬企業の現状からすれば、これでも夢のようにうまく進んでいるプロジェクトということになるでしょう。創薬は、95%以上のプロジェクトがどこかで頓挫する、死屍累々の現場というのが実情です。

そうした創薬研究に、主人公のようなずぶの素人が打って出て成功する確率は、実際のところ限りなくゼロに近いでしょう。ですが、「ロレンツォのオイル」のオーギュスト・オドーネ氏のように、現実にそれをやってのけた人物がいるのも事実です。

作中には、「画期的な薬を作った人物を、私は何人か知っている。彼らに共通するのは、人生を懸けてでも成し遂げるという強い意志だ」というセリフが出てきます。システマティックになりすぎ、規定された個人の持ち場だけをこなしていれば業務が成り立ってしまう現代の研究所において、こうした「強い意志」は失われがちになっているのではないか――本作を読んで、改めてそうしたことを思わされた次第です。

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

ブログ:有機化学美術館・分館

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

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