インタビュー 公開日:2021.01.22 インタビュー

華麗なキャリアの舞台裏 薬剤師・スポーツファーマシスト・パラサイクリング選手 杉浦佳子さん

華麗なキャリアの舞台裏 薬剤師・スポーツファーマシスト・パラサイクリング選手 杉浦佳子さん

【パラ自転車で2冠】薬剤師・杉浦佳子のキャリアとは?【インタビュー】

在学中の妊娠・出産で一度は退学したものの、薬剤師への強い思いから再度、大学に入学して、子育てしながら国家試験に合格。勤務する薬局では常務取締役にまで上り詰めるも、事故に遭い右手足麻痺と高次脳機能障害の後遺症が残りました。一生、施設で生活することになると宣告されましたが、そこから薬剤師として見事に復帰。同時にパラリンピックの金メダル候補に目されるまでになった杉浦佳子さんのキャリアは、私達に「正解はひとつではない」ということを教えてくれるものでした。(2020年11月取材)

代々続く薬種商の家に生まれ、子育てしながら薬剤師免許を取得

――ご実家は代々薬種商の家系だと伺いました。薬剤師を目指したのはやはりご実家の影響が大きかったのですか?

実家は曾祖母の代から薬種商を営んでいて、地域では今で言う健康サポート薬局のような存在でした。子供が発熱したといってお客さんが来れば夜中でも店を開いて薬を売り、正月を除き大晦日も営業していました。

小さな薬店ですから安売りなどできないのですが、地域の人は母や祖母を求めて来てくれるのです。ふらりと立ち寄ってはおしゃべりして、血圧などを測って帰ります。地域の人のために働く母達の背中を見て育ったため、私自身もいずれは薬剤師になるのが当たり前と思って育ちました。

――子育てをしながら薬剤師免許を取得されたそうですね。どのように両立したのですか?

北里大学に入学する前に東北薬科大学に入学したのですが、すぐに妊娠・出産して退学しました。その後、やはり薬剤師になりたくて、子どもが寝ている間に猛勉強して北里大学に入学したのです。時間がない方がかえって人間は集中できると思います。レポートをするにしても「(子どもが)いつ起きるかわからない」と思うと、想像以上に集中力が発揮できます。

介護保険の黎明期から在宅へ、処方変更など提案も

――大学卒業後はどのような進路を歩んだのですか?

大学卒業後は北野調剤薬局という中堅薬局に入職しました。ここに入職したことは、私にとって本当に幸運でした。当時、新卒薬剤師の入職先と言えば病院か企業が一般的。新卒で、ましてや小さな子どもがいる私が入職できる先は多くありませんでした。

社長はそんな私に対して「うちにおいで」と言ってくれたのです。ですから私も恩返しがしたくて、がむしゃらに働きました。

子どもが小さい時は薬局のすぐ近くに住んで、夕方、学童の先生に薬局まで連れてきてもらい、仕事が終わるまで子どもは薬局で待っていました。薬局側も授業参観の時間帯だけ有休を取らせてくれるなどの配慮をしてくれました。様々な配慮をしてもらっている恩返しと思って働いているうちに気づけば主任、薬局長、取締役、そして最後は常務取締役になっていました。

――2000年前後に介護保険ができる前後から、在宅医療に取り組んできたと伺っています。

在宅をしている病院が、薬を配達してくれる薬局を探していたことから始めました。まだ周囲で在宅をしている薬局はなく、完全に手探りの挑戦でしたが、本当に興味深い経験を積むことができました。在宅は「在宅でしか知り得ない情報」の宝庫です。例えば「この患者さんは、あまり薬を飲めていないのに元気そうだ。もしかしたらこの薬は不要なのでは?」ということは、在宅に行って初めて知ることができます。

実際に、そのような服薬情報を医師にフィードバックし、処方が変更されて10剤から6剤にまで減薬できたケースもありました。薬局勤務時代にこうした在宅での経験を論文にまとめることができたのもよい思い出です。

高次脳機能障害を克服し、薬剤師として復職

――自転車レースで事故に遭い、高次脳機能障害の後遺症が残ったものの、リハビリして薬剤師として復職できたのはすごいですね。

20代でフルマラソンを完走したのをきっかけにトライアスロンに興味を持ち、趣味で大会にも出場していました。そんな中、自転車レース中の事故で脳挫傷、くも膜下出血、頭がい骨骨折などの大けがを負い、意識不明の重体に。一命は取り留めたものの高次脳機能障害などの後遺症が残ってしまいました。

「高次脳機能障害」と聞いた時に「これは大変なことだ」と感じました。事故直後に受けた認知症テストではまったく答えられず、結果はゼロ点。本を読もうと思っても、ひらがなは読めるものの漢字とカタカナがまったくわからないのです。

入院中はリハビリスタッフ3人がかりでついてくれたのですが、一般病棟に移ってすぐに「自転車が好きなんだって? 乗ってみようか」と言われました。初めは不安だったものの、不思議なことにエアロバイクを漕ぎ始めたら「楽しい」という感情が沸いてきたのです。気づいたら必死で漕いでいて、リハビリの先生からストップがかかるほど夢中になっていました。

主治医からは「退院後、自宅に戻ることはできない」と告げられていたのですが、結果的に3か月で自宅に戻ることができました。退院後に受診していた脳神経外科医から「薬剤師に戻ることができるのでは?」と促され、再就職を果たすことになったのです。

エージェントに登録し、就職先を紹介してもらったのですが、この時の人事部長の言葉は生涯、忘れられません。障がい者になって仕事をするのが不安だった私に対して、部長は「あなたは患者さんの気持ちがわかる薬剤師だ。ぜひうちに来て欲しい」と言ってくれたのです。その後、障がい者手帳が交付された時も喜んでくれて「うちの薬剤部で初めて障がい者を雇用できた」と。本当にありがたかったですね。

パラリンピックでメダル候補に、スポーツファーマシストとしても活躍

――トライアスロンに取り組む一方で、薬学的知識を生かしてスポーツファーマシストとしてもご活躍されたそうですね。

スポーツファーマシストに求められる役割は、単に「この薬が使えるかどうかの判断」だけではありません。使えるギリギリの薬の中で、どのような基準で選ぶのかという視点が大切です。例えば花粉症であれば、オフシーズンは鎮静作用を生かしてしっかり休息を取るのがよいですし、反対にオンシーズンであれば鎮静作用は避けなければなりませんから、点鼻・点眼などを最大用量まで使ってしのぐなどの工夫が必要です。

また、決して忘れてはならないことは、スポーツファーマシストの仕事がアスリートの競技生命を左右することがある点です。薬は文字が1文字違うだけで、まるで違う薬の名前になります。もしも伝達ミスでドーピングに違反してしまえば、何年にもわたる練習や支援者の協力など、すべての人の努力が水の泡になるのです。ですからどれほどわかり切った回答であっても、絶対に口頭では伝えずに、必ず文書に残すことが重要です。このほかアスリートは海外遠征に出ることが多いので、薬の名前は「一般名」と「英語表記」で伝えることも大切です。

――事故後にパラリンピックに出会い、瞬く間に東京パラリンピックの金メダル候補となりました。

事故後、半年ほど経った頃に友人から教えられてパラリンピックに出会いました。初めは、一般の大会への復帰を目指していたので「私は障がい者ではないのに」と戸惑いましたが、いざレースに出てみたらあまりのレベルの高さに衝撃を受け、闘志に火が付きました。そこから練習を重ね、3か月後に挑んだ世界選手権で優勝。2018年には、アジア人で初めてパラサイクリング最優秀選手賞を受賞することができました。

国際戦デビューからわずか2年のうちに数々の大会で優勝を果たす。画像は「全日本自転車競技選手権大会2020 」時の1枚 。(画像提供:山中 光さん)

今は、オリンピックやパラリンピックの開催どころではないのが実情だと思います。しかし、そうした中でも応援してくれた人達に精一杯、努力した姿を見せてから「ありがとうございました」といって終わりにできれば幸せですね。

撮影/和知 明[ブライトンフォト] 取材・文/横井かずえ 撮影協力/クロスコーヒー

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杉浦佳子(すぎうら・けいこ)

薬剤師。スポーツファーマシスト。趣味で参加していた自転車レース中に転倒し高次脳機能障害を負うも、懸命なリハビリによって奇跡的な回復力を見せ、パラサイクリングの道に進む。2017年、国際自転車連合(UCI)パラサイクリング・ロード世界選手権タイムトライアル優勝。2018年は同大会女子C2クラスのロードレース優勝。自身の経験を活かし、「アスリートの気持ちがわかるスポーツファーマシスト」「患者の気持ちがわかる薬剤師」として精力的に講演活動も行う。
https://www.parasapo.tokyo/messenger/messenger/sugiura/

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