薬剤師と著名人エピソード 薬剤師と著名人エピソード
名作を著した作家や誰もが知っているような大企業の創業者。医療とは直接関わりのない業界で活躍した中にも、薬剤師資格や医師免許を持っていた人々がいるんです。彼/彼女は一体どんな人物だったのか? どんな人生を送ったのか? 意外な発見があるかもしれません。
第1回 横溝正史(1902年~1981年)
プロフィール
日本の小説家、推理作家。江戸川乱歩と並んで日本二大探偵作家と称される。代表的な作品は「八つ墓村」「犬神家の一族」「悪霊島」など。
1902年
父・冝一郎、母・波摩の三男として生まれる。生家は兵庫県神戸市の薬種商だった。
1920年
第一銀行支店に勤める
1921年
処女作「恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)」を発表。同年大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)に入学。卒業後、実家の薬種業に従事。
1926年
博文館に入社、雑誌『新青年』の編集者となる。
1932年
博文館を退職。専業作家を志し、以降は多くの作品を発表する。
1981年
結腸がんのため死去。

薬剤師免許と横溝のかかわり

銀行員として1年勤めた後、横溝は大阪薬学専門学校へ入学。神戸から大阪まで数名の学生と共に1時間の汽車通学をすることになる。この学生たちは「神戸組」と称し大変仲がよく、卒業が近くなった1923年の秋頃から、横溝は仲間とともに教科書や参考書を売り飲み代とし、毎日のように飲み歩いた。横溝は当時の気持ちを後に「これが学生生活の最後だという感傷が、われわれを酒に駆り立てたのである。みんなまだ純情で色気はなく、アルコールの酔いだけを求めたのである。私が一番強かった」(出典:横溝正史自伝的随筆集)と語っている。卒業後、生家の生薬店を継いだが、当時の暮らしぶりはあまり描かれていない。
また、作品に登場する薬物は「ヒ素・麻酔薬・青酸カリ」などがあるが、薬物の描写や人体への薬物の影響が詳細に語られることはあまりなく、むしろ密室などの物理的トリックの描写を得意とした。
作品中の殺人事件は毒殺よりもむしろ、「顔のない死者」のモチーフが頻出しており、横溝自身も「ぼくは首とるのが好きなのよ」と語っている。

処女作発表、すぐに薬学専門学校へ

1921年4月、横溝の処女作「恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)」が、雑誌『新青年』に掲載される。しかし当時の横溝は銀行員として勤めており、作家を志していたわけではなかった。同年、銀行を辞めた横溝は大阪薬学専門学校に入学し、卒業後は生家の生薬店「春秋堂」で働いている。
「当時私は20歳、いまのかぞえかたでいうと19歳。(中略)将来作家として立っていこうなどという覚悟などあるはずもなく、少年時代からむやみに投書癖の強かった私の、ほんの手すさびに過ぎなかった」(出典:乱歩は永遠にして不滅である)と語っている。
しかし、薬剤師時代に江戸川乱歩と出会ったことが大きく人生を変えることになる。

薬局経営はわずか2年半、その転機は

横溝が『新青年』に作品を発表した2年後、1923年に江戸川乱歩が『新青年』にて処女作「二銭銅貨」でデビュー。その縁で1925年、生薬店の経営をしていた横溝と、小説家を目指す乱歩が出会うこととなる。
横溝は初対面から乱歩の人柄に魅了され、乱歩も8つ年下の横溝に目をかけた。2人は親交を深め、乱歩が上京した後も手紙のやりとりをする仲であった。
そして1926年。神戸の横溝のもとに乱歩から「トモカクスグコイ」と記された1通の電報が届く。横溝は遊びの誘いにのったつもりで上京。ところが乱歩は相談なしに横溝を『新青年』の編集部へ入れてしまう。これが横溝の商業作家への布石となった。
後に横溝はこう語っている。「私の人生の路線はすべて乱歩に敷設してもらったようなものである。若いときから引っ込み思案で臆病で、人見知りが激しかった私は、乱歩という人がいなかったら、いまでも投書癖のあるいっぷう変わった薬剤師として、はやらない薬局の経営にアクセクしていたにちがいない」(出典:続・乱歩は永遠にして不滅である)

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