薬剤師と著名人エピソード 薬剤師と著名人エピソード
名作を著した作家や誰もが知っているような大企業の創業者。医療とは直接関わりのない業界で活躍した中にも、薬剤師資格や医師免許を持っていた人々がいるんです。彼/彼女は一体どんな人物だったのか? どんな人生を送ったのか? 意外な発見があるかもしれません。
第10回 マックス・フォン・ペッテンコーフェル(1818年~1901年)
プロフィール
ドイツの衛生学者。下水道の普及や都市衛生などの発展に多大な功績を挙げた。コレラの病因論争において、自らコレラ菌を飲んだエピソードは有名。「近代衛生学の開拓者」「環境医学の創始者」「実験衛生学の父」などと称されている。森鴎外のドイツ留学時代の恩師であり、鴎外の孫の名前「真樟(まくす)」はペッテンコーフェルの名前からつけられた。
ドイツの衛生学者。下水道の普及や都市衛生などの発展に多大な功績を挙げた。コレラの病因論争において、自らコレラ菌を飲んだエピソードは有名。「近代衛生学の開拓者」「環境医学の創始者」「実験衛生学の父」などと称されている。森鴎外のドイツ留学時代の恩師であり、鴎外の孫の名前「真樟(まくす)」はペッテンコーフェルの名前からつけられた。

御典薬師の叔父のもとで、教育を受ける

ペッテンコーフェルは、1818年にドイツの貧しい農家の第五子として生まれた。飛び抜けて成績が良かった彼は8歳から叔父に引き取られ、ミュンヘンで勉学に励んだ。叔父はミュンヘン王宮の御典薬師で王宮薬局の長であった。
 
1837年、ペッテンコーフェルは19歳でギムナジウム(※)を首席で卒業。ラテン語の教員職に就き、余暇に自然科学の勉強をしたいと考えていたが、子どものいなかった叔父の期待に応えるかたちで薬剤師を目指すことになった。

ミュンヘン大学から「固いパンの時代」へ

ミュンヘン大学に入学したペッテンコーフェルは、詩作や詩の朗読にも熱心で、芝居に興味を持った。当時の彼は、叔父に「自分は役者に向いていると言われる」とよく語っていたという。
 
1839年、叔父が長を勤める王宮薬局で、見習い実習を開始。熱心に仕事をしていたが、あるとき薬剤の調合量を間違えるという重大な失敗をしてしまう。叔父は激しく怒り、他の人々がいる前で彼に平手打ちをした。ショックを受けたペッテンコーフェルは叔父の家を出て行ってしまった。
 
失意のなか、ペッテンコーフェルは生活費を稼ぐために俳優を目指した。レーゲンスブルグの芝居小屋を訪ねてオーディションを受け、端役を演じるようになる。貧乏で売れ残った安いパンをもらったり買ったりしていたこの時代のことを、後に彼は「固いパンの時代」と呼んでいる。
 
彼を再び勉学の道に戻したのは、フリードベルグ年金局の幹部の伯父の娘、ヘレーネとの恋愛である。ヘレーネは、彼がミュンヘンに戻りまともな人間になるのであれば求愛に応じたいと告げた。葛藤の末、彼はミュンヘン大学へ戻り、叔父のもとで再び勉学に励んだ。ヘレーネとは後に結婚し、彼女が亡くなるまでの55年間、幸せな結婚生活を送った。

数々の功績

ペッテンコーフェルは強い意思とエネルギーを持って薬学と医学を納め、1843年、薬学と医学の国家試験に合格。薬剤師の開業免許を取得し、また、外科・一般内科・産婦人科を扱える医師になった。大学での職がすぐに得られなかった彼は造幣局に就職し、その後1847年にミュンヘン大学医学部の助教授の職を得た。また、1850年に王宮薬局長の叔父が胃がんで亡くなると、国王から後任の薬局長および王の薬師に命ぜられ、大学の職と併任した。
 
彼の研究は専門の「医化学」だけにとどまらず多岐にわたり、各分野に大きな影響と貢献を果たした。遺跡で発掘されたガラスの復元、セメントの改良、木炭ガスの発明、絵画の修復法など、これらの研究は国や市民の要請に応じてなされたものが多く、彼がこの成果で直接の利益を得ることはなかった。しかし、これらの業績によって国内科学界での地位を確かなものにしていった。

コレラの研究と晩年

ヨーロッパで猛威をふるったコレラが、ミュンヘンでも蔓延していた1849年、ペッテンコーフェルは王国政府のコレラ対策委員会の一員として研究に着手する。当時、コレラについては何もわかっておらず、原因も伝染経路も、また治療法も不明であった。
 
彼は地形や罹患数、死亡率などを厳密に精査し、結果を統計的にまとめあげた。最終的な彼の結論は、生活を衛生的な状態にすること以外に方法はないというものだった。
これを受け、ミュンヘンでは上下水道の設置や屠殺場の衛生管理を行い、結果的にこの施策がコレラ流行の拡大に歯止めをかけた。これらは伝染病に対して大きな効果があり、コレラ菌が発見された後でも彼の功績は打ち消されていない。衛生学は医学上重要な学問であると認識され、ドイツの大学の医学部では衛生学の講義が行われるようになった。
 
ペッテンコーフェルは、ヨーロッパ医化学界の権威として活動したが、徐々に加齢による衰えや病気があらわれてきた。1894年に大学の職を退いた後、次々に公職を辞した。自分が理性を失ってしまうという妄想が強くなり、うつ病を発症。1901年、自宅でピストル自殺を遂げた。83歳であった。
ペッテンコーフェルは広く社会に貢献する多くの功績を残し、彼が受けた勲章はミュンヘンの資料館に展示されているものだけでも118以上にのぼる。

 

※1 ギムナジウム:ヨーロッパの中等教育機関で日本の中高一貫校に相当する学校。

 
※参考文献
『知られざる科学者ペッテンコーフェル―環境医学の創始者』 カール・ヴィーニンゲル 著、 植木絢子 訳 風人社刊

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