薬にまつわるエトセトラ 公開日:2026.07.07 薬にまつわるエトセトラ

薬剤師のエナジーチャージ薬読サイエンスライター佐藤健太郎の薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第141回

膵臓がん治療の希望の星「ダラクソンラシブ」がもたらす革命的進歩とは?

この6月、医学・薬学界はある薬の話題で持ち切りとなりました。米イリノイ州シカゴで行われた米国臨床腫瘍学会の年次会において、膵臓(すいぞう)がん治療薬「ダラクソンラシブ」の治療成績が発表され、大きな反響を呼んだのです。

 

最難関のがん治療に差した光

膵臓がんは、治療が難しいがんの代表格とされてきました。膵臓は隠れた位置にあり、初期段階では自覚症状もないため、早期発見が難しいがんです。また、膵臓がんは腹膜や肝臓に転移しやすく、こうなった時には手術も間に合わないケースがほとんどです。
 
加えて、膵臓がんに効果のある抗癌(がん)剤が少ないのも問題です。これまでにはゲムシタビンがよく用いられた他、いくつかの抗癌剤を組み合わせた治療法も開発されてきましたが、効果が十分とは言い難いものでした。このため、膵臓がんの5年生存率は他のがんに比べてずっと低くとどまっています。
 
参考:なぜ膵がんは難治性のがんなのか?|みゆき消化器内視鏡クリニック
 
しかし今回の発表によれば、従来の化学療法では生存期間が平均6.7カ月であったのに対し、ダラクソンラシブ投与群では13.2カ月と、倍近い延長が見られました。1年後の生存率も18.8%対53.2%と、圧倒的な差がついています。痛みなども軽減され、QOL(生活の質)も向上が見られました。
 
参考:転移を有する膵臓がんでダラクソンラシブが全生存期間を有意に改善|がん治療・癌の最新情報リファレンス
 
この報告に対し、会場の聴衆はスタンディングオベーションでこれをたたえたといいます。ダラクソンラシブを開発したのは、がん治療薬を専門とする米新興企業のレボリューション・メディシンズ社のチームですが、その名の通りの革命的な進歩といえるでしょう。
 
副作用として下痢や吐き気なども報告されていますが、これについては今後の詳しいデータ待ちということになるでしょう。

 

RASという難敵

では、彼らはどのようなアプローチでこの薬を創り出したのか。研究チームがターゲットとしたのは、RASタンパク質でした。このタンパク質は細胞の増殖を管理する役割を担っていますが、変異を起こすと増殖のスイッチが入りっぱなしになり、がんの原因になります。膵臓がんの約9割で、このRAS遺伝子の変異が見られるということです。
 
つまり、このRASタンパク質に結合し、その機能を阻害する分子を作れば治療薬になりうる――わけですが、これがそう簡単ではありません。RASタンパク質は表面に凹凸がなく、医薬分子が結合しうる場所がないのです。創薬研究者の間でよく使われる用語でいえば、「アンドラッガブルなタンパク質」ということになります。
 
もう一つ、先ほどRASタンパク質は変異を起こすことでがん化をもたらすと述べました。この変異は一定ではなく、変異を起こす場所も、変化した先のアミノ酸もさまざまです。これら少しずつ構造の異なる、変異RASタンパク質全てに結合できる分子の設計は、極めて困難です。

 

「分子糊」という着想

そのRASを、レボリューション社の研究陣はどう攻略したか。彼らが利用したのは、「分子糊(のり)」という考え方でした。これは、二つのタンパク質同士を、糊のように接着させる低分子を指します。より正確には、「二つのタンパク質の相互作用を新たに誘導または安定化する低分子」ということになります。
 
よく知られているケースとしては、免疫抑制剤シクロスポリンがあります。この化合物は、まず体内に多く存在するタンパク質シクロフィリンと結びつき、これが細胞内シグナル伝達に関わる酵素カルシニューリンに結合することで、T細胞の増殖を抑えるというメカニズムです。
 
研究チームは、この方法論を利用しました。低分子単独でRASタンパク質に結合することが難しいなら、まずシクロフィリンに結合し、その複合体でRASタンパク質に結びつくことを目指したのです。タンパク質同士であれば、広い接触面積で多数の相互作用を作りうるので、強く結びつくことが期待できます。
 
といっても、同時に二つのタンパク質と相互作用できる低分子の設計など、以前ならば夢物語と考えられていたほどの難事です。そこで彼らは、サングリフェリンという天然物を出発点としました。この化合物はシクロフィリンと結合することが知られていますので、その部分を残しつつ、残りの部分をRASタンパク質に結びつくように変換していくというストーリーです。
 
参考:Discovery of Daraxonrasib (RMC-6236), a Potent and Orally Bioavailable RAS(ON) Multi-selective, Noncovalent Tri-complex Inhibitor for the Treatment of Patients with Multiple RAS-Addicted Cancers|ScienceDirect
 
結果としてこのアプローチは成功したわけですが、どれだけの検討を重ねればこんな分子を創り出せるのか、ちょっと筆者あたりには想像もつきません。まして体内動態や安全性と両立させるなど至難の業であったはずで、まさに画期的な創薬技法といえそうです。
 
ダラクソンラシブは、創薬の面からも広い応用が期待されますが、抗がん剤としてももちろん、広い展開がありえそうです。変異RASタンパク質が関わるのは膵臓がんばかりではありませんので、これから他のがん種にも適用が図られる可能性があります。
 
このようにダラクソンラシブは、医学的にも創薬科学的にも画期的な薬であり、現場で発表を聞いた聴衆の興奮もわかる気がします。これからこの研究がどのような発展を遂げるか、元研究者の身としては非常に楽しみです。

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佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。