薬にまつわるエトセトラ 更新日:2023.05.30公開日:2021.11.04 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。

第85回

有機触媒とは何か?2021年ノーベル化学賞で注目

今年2021年のノーベル化学賞は、「不斉有機触媒の開発」を讃えて、ドイツのベンジャミン・リスト博士と、アメリカのデヴィッド・マクミラン博士に贈られることが決まりました。筆者も含め、多くの人がmRNAワクチン開発者への授賞を予想していたのですが、今年はまだ早いという判断だったのでしょうか。

というわけで今回は、その不斉有機触媒とは何なのか、医薬品とはどう関係しているのか、解説していきましょう。

 

不斉触媒と医薬

有機化合物、特に医薬品にとって、不斉炭素の存在が重要であることは改めて言うまでもないでしょう。医薬品となる化合物では、鏡像異性体間で薬効、毒性、体内動態などが異なることが多く、たいていの場合一方の異性体のみを供給することが求められます。

鏡像異性体の例(図は執筆者提供)

一方の鏡像異性体のみを得る方法はいくつかありますが、不斉触媒による方法は最も理想的といえます。少量の触媒のみで反応を制御し、望みの異性体のみを多量に得られるわけですから、これに勝るものはありません。

不斉触媒の化学は、1970年代ごろに始まり、後に医薬生産に応用されるようになりました。2001年には、この分野を牽引してきた野依良治、シャープレス、ノールズの3氏にノーベル化学賞が授与されています。彼らの開発した手法はいずれも医薬や香料の工業的合成に適用されており、これが受賞の決定打になったと思われます。

これら不斉触媒は、いずれもルテニウムやチタンなどの金属元素に、不斉な化合物(配位子)を結合させたものです。特異で優れた反応性を持つ金属元素の周りを、巧みにデザインされた配位子で覆い、一方の鏡像異性体のみを作り出すよう制御するイメージです。

ただしこうした重金属系の触媒は、医薬品に残存すると毒性を示す可能性があります。どんなに精製してもppm、ppbレベルで残存してしまうことが多く、除去には手を焼きます。リサイクルも難しく、多くは重金属廃棄物となって捨てられます。また、触媒に使われるのはいわゆるレアメタルや貴金属が多く、コストや入手可能性なども問題です。

 

 

有機触媒の登場

そうした中、マクミラン博士は2000年に、炭素・水素・窒素・酸素のみから成り、不斉付加反応を触媒できる化合物を発表しました(マクミラン触媒|Chem-Staitonより)。彼はこうしたタイプの触媒を、「有機触媒」(organocatalyst)と呼ぶことを提案したのです。これが触媒新時代の幕開けとなりました。

これと同時期にリスト博士は、身近なアミノ酸の一つであるプロリンが、アルドール反応という基礎的な反応の不斉触媒として働くことを発表しました(もっとも単純な触媒「プロリン」|Chem-Stationより)。不斉触媒といえば手の込んだ構造の合成配位子か、複雑巨大な酵素しかないと思われていた中、ごくシンプルなアミノ酸が利用可能であるという発見は、大変に衝撃的でした。

これらの報告は注目を呼び、多くの研究者がこの分野に参入するきっかけとなりました。日本人研究者もここに加わり、大きな貢献をしています。現在では、付加反応、酸化反応、縮合反応などなど、さまざまなタイプの反応を行える有機触媒が出揃っています。

 

 

医薬品と有機触媒

前述の通り、有機触媒の特徴は、高価で毒性のある金属元素を含まず、安価に合成できて危険な廃棄物を出さない点にあります。また、金属系の触媒は水や空気で失活したり、発火したりといった危険がありますが、有機触媒はさほど気をつけずとも取り扱えます。これは、工業規模の合成には向いた特徴です。

もう一つ、他の反応を妨害しにくい点も特徴として挙げられます。このため、反応を終えた触媒を除去せず、すぐに次の反応を行うようなことも可能です。

こうした特性を利用し、林雄二郎らはタミフルをたった一つの反応容器内で全合成するという、驚くべき離れ業を実現しました(林 雄二郎博士に聞くポットエコノミーの化学|Chem-Stationより)。複雑な化合物の合成は、反応・後処理・精製というステップを何度も繰り返し、そのたびに多大な労力とコストを払い、多くの廃棄物を出すのが当然とされてきました。有機触媒はこうしたロスをなくし、真に「グリーンな」化学合成の道を切り開いたといえます。

とはいったものの、有機触媒が医薬品合成を大きく塗り替え、環境にやさしい合成の確立に大きく貢献した――というところまでは、まだまだ到達していないというのが筆者の個人的な見解です。

ノーベル賞には、「今後の科学はこの方向へ進むべきだ」という、ノーベル委員会からのメッセージが込められているといわれます。持続可能な社会、SDGsといったキーワードが叫ばれる時代に、有機触媒はよくフィットした研究分野であるという判断だったのかと思います。ノーベル賞受賞によって、この分野がどのように発展してゆくか、興味のあるところです。

 


佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

ベストセラー『炭素文明論』に続く、文明に革命を起こした新素材の物語。新刊『世界史を変えた新素材』(新潮社)が発売中。

佐藤 健太郎
(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。『世界史を変えた薬』『医薬品クライシス』『炭素文明論』など著書多数。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。ブログ:有機化学美術館・分館

 

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