学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。
“やせる薬”が保険適用に? 肥満症治療薬「ウゴービ」とは
難しかった「やせ薬」
筆者は今から10年近く前に『化学で「透明人間」になれますか?』(光文社新書)という本を出したことがあります。透明人間になりたい、不老不死になりたい、頭がよくなりたい、若返りたいといった人間の願望を、化学(科学)の力でどこまでかなえられるかについて書いた読み物です。
書くために調べてみて思ったのは、現代の科学の進歩は大したもので、どんな願望もそれなりに実現に近づく手段が開発されつつあるということでした。その中でただ一つ、これだけはどうにも難しいと思ったのが、「やせたい」という願望をかなえることでした。
もちろん手段を選ばなければ、やせること自体は可能です。極端な話、覚醒剤や筋肉増強剤を服用すれば、脂肪が減少して体が引き締まります。しかしもちろんこれらの手段は、一般人が求める「健康的に美しくやせたい」という願望からはほど遠いものです。
こうした美容目的ではなく、純粋に医療目的の抗肥満薬もニーズが高い医薬です。何しろ欧米には、生命維持に危険をきたすレベルの肥満者が日本に比べて多くいますから、問題は切実です。しかし、こうした医薬も難しいことに変わりはありません。
一応、肥満症の治療薬も開発されてはいますが、正直言って満足度の高いものではありません。たとえばリパーゼ阻害剤は、脂質の分解を防いで吸収を抑制する作用を持つ薬剤ですが、体重をほんの数パーセント程度減らすだけに過ぎません。
しかもこの薬は脂肪の分解を抑制するため、油が便と混じって排泄されて下着を汚してしまうなど、実に受け入れがたい副作用があることでも有名です。
リバウンドも大きな問題です。人間の体には、常に一定の状態を保とうとする仕組み(ホメオスタシス)があり、脈拍や血圧などが異常な状態になっても、すぐ元に復するように調整されます。体重もその一環であり、「恒常状態」から外れると復帰させようとする力が強く働き、元の体重に戻ってしまうのです。
「ウゴービ」登場
このような次第で、極めて市場ニーズの高い医薬でありながら、満足度の高い抗肥満薬は存在していませんでした。しかしこの状況が、いま大きく動こうとしています。2024年2月22日に、ノボノルディスク社が発売する予定の「ウゴービ」(一般名セマグルチド)がそれです。
この薬は、全くの新薬ではありません。2型糖尿病治療薬(製品名オゼンピック)として、日本では2018年から使われている薬であり、ジャンルとしてはGLP-1受容体作動薬に属します。
GLP-1は「グルカゴン様ペプチド-1」の略で、インスリンの分泌を促進し、血糖値を下げる作用を示します。セマグルチドは、このGLP-1の構造を元に作り出された薬で、分子量が大きいために皮下注射で投与されます。
セマグルチドはGLP-1と同様に働いて血糖値を正常化させますが、同時に食欲を抑制し、体重を減らす効果があることもわかりました。このため2021年に米国で肥満治療薬として承認を受け、このほど日本にも上陸となったわけです。
その効果は素晴らしいもので、世界で最高の権威を誇る学術誌「サイエンス」でも、この薬を「2023年ブレークスルー・オブ・ザ・イヤー」に選んだほどです。
参照:Science’s 2023 Breakthrough of the Year: Weight loss drugs with a real shot at fighting obesity|Science
臨床試験では、週1回のセマグルチド投与を15~16ヶ月にわたって受けることで、平均で約15パーセントの体重減少が見られたということです。100kgの人が85kgになるのなら、これは健康面でも美容面でも極めて大きなメリットといえるでしょう。
ただし、これらは専門家の指導のもと、減カロリー食と週150分の運動をも併用した結果ですので、薬だけの力で誰でも楽にやせられるというものではありません。
参照:肥満は本当に「治療すべき」なのか? 米国で人気の肥満治療薬に賛否両論|WIRED.jp
早くも事件発生
また、太っている人なら誰でも、この薬の恩恵に与れるというわけでもありません。対象となるのは、「高血圧、脂質異常症、2型糖尿病のいずれかの病気があり、肥満度を測る指標のBMIが35以上か、27以上で肥満に関する健康障害(脂質異常症、高血圧、高尿酸血症など)が二つ以上ある」などの条件を満たす患者に限られます。
BMI35以上というと、身長170cmの人なら100kg以上に相当しますから、「ちょっと体重が気になる」程度のことで服用できる薬ではないわけです。
参照:肥満症治療薬「ウゴービ」、22日から保険適用に 厚労省|朝日新聞デジタル
日本肥満学会でも、この薬は「肥満症治療薬」であり、「美容・ 痩身・ダイエットなどの目的で用いる薬剤ではない」という声明を発表して、ガイドラインを外れた安易な使用に厳しく釘を刺しています。
参照:肥満症治療薬の安全・適正使用に関するステートメント|日本肥満学会
また、この薬には膵炎の発生率上昇などの副作用も報告されており、そう気楽に服用すべきものではありません。しかし、やせ薬となれば欲しい人はいくらでもいることが予想され、偽物や不正な取引が横行するような可能性もありそうです。実際、東大病院の研修医2名が、その立場を利用して処方箋を発行し、この薬を手に入れるという事件が早くも発覚しています。
参照:抗肥満薬の副作用:これまでに分かったこと|Nature Japan
参照:東大病院の研修医2人、病気装って糖尿病薬を入手 「やせ薬」と話題|朝日新聞デジタル
人間の欲望あるところ、事件や事故は必ず発生します。究極のやせ薬の登場は、果たして社会に何をもたらすでしょうか。
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